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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)女子師範を出て小学校の先生に

 ア 女子師範で学ぶ

 「私は大正10年(1921年)の生まれです。出身は西条(さいじょう)ですが、家の事情でおじの世話になることになり、小学校4年生のときに三津に来ました。その後、数えの14歳で女子師範(愛媛県女子師範学校:現愛媛大学。)に入学し、5年間通いました。
 女子師範の教育課程は、いろいろな教科科目がありましたが、戦前のことなので良妻賢母の育成に重点が置かれていました。特に家庭科では、いろいろなお作法や茶道、華道など厳しく教育されました。規則も厳しかったです。私は教科の中でも体育と音楽、数学には自信がありました。体育の授業には、なぎなたがありました。私は運動神経が特によかったので、運動会では花形でした。女子師範には付属の小学校や幼稚園があり、ここで教育実習をしました。当時は食糧難の時代でしたので、学校や近くの空き地でイモを作ったり、豚小屋で豚を飼ったりしていました。運動着を着ての勤労奉仕作業も多かったのです。一月に一度お弁当のおかずが梅干だけのときがありました。興亜奉公日(こうあほうこうび)(国民精神総動員運動の一環として昭和14年から実施された生活運動で、毎月1日に実施された。後の大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)。)の『日の丸弁当』です。
 私が女子師範を卒業したのは昭和16年(1941年)です。師範学校ですから、卒業したら全員教師になります。卒業生の赴任先は、一人ひとりの成績などをもとに、県が決めていました。女子師範の生徒は県内各地から来ており、卒業生のうち松山市内の学校に赴任したのは私を含めて4、5人くらいだったと思います。私の学年は、尋常小学校の高等科を卒業して入学した私らが1部(5年課程)で40人足らず、女学校を卒業して入学してきた子が2部(2年課程)で2クラス70人余り、合計110人くらいでした(昭和16年の卒業アルバムには1部37名、2部A組35人、B組37人が写っている。)。
 三津の町は私が子どものころに比べて大きく変わりました。三津の内港も海岸線が大きく変わりました。今はなくなってしまった競馬場(三津浜競馬場)や芝居小屋、映画館もありました。芝居は永楽座という大きな建物でやっていましたが、後に映画館になりました。電気館という映画館もありましたが、ここはダンスホールもやっていました。当時は住吉(すみよし)町の商店街もにぎやかでした。三津に船でやってきた商人の泊まる商人宿もたくさんありました。鋳掛け屋や鍛冶(かじ)屋、桶屋、洗い張り屋もありました。洗い張り屋は今でも2軒あります。三津の町全体に活気がありました。」

 イ 小学校教員時代

 「女子師範を卒業後、私は番町小学校に赴任しました。19歳から21歳までの3年間です。番町小学校は県下一の名門校だったため、新規採用で赴任した私は、先輩の女の先生からずいぶんねたまれました。その後、宮前小学校に異動しましたが、事情があって辞めました。昭和19年の戦時中のことです。宮前小学校は周囲が農業地帯でお百姓が多く、保護者がいろいろ農作物をくれたので、食糧難の時代に助かりました。宮前小学校にいたのはわずか4か月だけでしたが、そのときに教えた生徒はその後もよく声をかけてくれます。2、3年前に病院で、おばあさんが『先生ご無沙汰しております。』と声をかけてくるので話をすると、宮前小学校の教え子だったのです。その教え子も、もう80歳近いのです。
 宮前小学校を辞めてすぐに運輸省三津浜支所に就職しましたが、その後、新浜(しんはま)町に当時あった呉海軍施設部の人事部で働きました。新浜の塩田跡の広場にその施設があったのです。そこで終戦を迎えました。厳しかった士官が、終戦になったとたん柔らかくなったのを今でも覚えています。終戦後すぐに残務整理の仕事で香川県の観音寺(かんおんじ)に行きました。そこではエリート海軍士官(現在の東京大学や京都大学の出身者)に徹底的にしごかれました。合理的なものの考え方や教え方など多くのことを学びました。若かったその方たちは、後にいろいろな分野で出世して活躍しています。
 2年ほどして三津に帰った後、学校現場より再三復帰の誘いがあったので、昭和23年ころに再び教員として高浜小学校に着任、半年後に高浜中学校に移りました。ちょうど校舎を建築中で、土運びの手伝いなどをしたことを覚えています。高浜中学には1年おり、その後三津浜小学校に異動しました。三津浜小学校が体育の文部省指定か何かを受け、体育教師を集めていたのです。ここでは西日本の体育の先生が集まっての研究授業があり、私は女子のダンスの授業を見せました。進駐軍が運動会を見にきたこともありました。昭和29年(1954年)には高松宮様が来校し、体育の授業を参観されましたが、『みなさんこんなに上手なのですか。』と感心されたと聞いています。三津浜小学校には昭和32年ころまでいましたが、ここを最後に退職することになりました。
 当時は30歳代で、教員としても元気な時でしたが、子どもが病気になり、私は学校の仕事に全力投球するほうなので、子どもの世話をしながら仕事をすることはできないと考え辞めたのです。私も主人も養子として**の家に入りました。義理の両親は子どもを育てたことがないため、子どもの面倒を頼めませんでした。」