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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)大正湯のあゆみ①

 ア 大正4年創業

 「大正湯の創業は大正4年(1915年)です(写真2-1-1参照)。昔、八幡浜市内には多くの銭湯がありましたが、うちが一番古いと聞いています。大正湯という名前は、大正時代創業というのもありますが、おそらくこの辺が大正(たいしょう)町という地名だったからでしょう。このあたりは八幡浜市内でも古い街です。うちの前を南北に走る道は宇和(うわ)に通じる古い街道で、北を東西に走る道は旧県道です。うちは東西および南北に走る昔の主要街道が出会うところに立地していたのです。現在のメインストリートの昭和通りは、国鉄が開通した時(昭和14年)にできました。
 創業者は祖父で、私で3代目になります。祖父が取った汽罐士(きかんし)の免許証が残っています。今でいうボイラーマンの資格です。銭湯を営業するためには、従業員の誰か1人はこの資格が必要でした。国鉄の蒸気機関士もこういう免許が必要だったと思います。私もこの資格を昭和43年(1968年)に取得しました。
 建物の骨組みは創業時のままですが、改修を2回しました。銭湯はどうしても湿気が多く、建物が傷むため、内張り、床などの改修が必要です。私が物心ついたとき、すでに祖父は亡くなっており、父が銭湯の仕事をしていました。私の記憶では、昭和20年代の大正湯は現在とほぼ同じ造りで、当時はイモを洗うようにたくさんのお客さんが来ていました。」

 イ 銭湯繁盛記

 「昭和20年代は、ボイラー室に男性2人、脱衣所に女性2人の従業員を雇っていました。ボイラー室では1人が火の番をし、もう1人は当時の燃料だった『おがくず』を製材所にもらいに行く係でした。脱衣所のおばちゃん(若かったと思うが、小学生の私にとっては『おばちゃん』でした。)は、赤ちゃんの世話や、更衣の手伝いなどをしていました。『背中流し』、俗にいう『三助(さんすけ)』はうちにはいませんでした。昭和30年代半ばまでは、本当にお客さんが多かったです。
 2人の従業員を雇っていた当時、父は番台に座っていました。客も多く繁盛していたので、父は『飲む・打つ・食う』の道楽をしていました。母が番台に座ることも多かったです。
 戦後の貧しい時代には、ほかのお客さんの服を無断で着て帰ったり、他人の履物を履いて帰る不心得者もいました。現在は靴箱も更衣ロッカーも鍵がありますが、昔は靴は脱いだまま、服はかごに入れたままのお客さんが多かったのです。昭和30年代半ばまではそんなことがよくありましたが、豊かになってからは少なくなりました。
 また、戦後しばらくは、銭湯でノミやシラミがうつるというので、保健所の人が定期的に来て、更衣ロッカーやかごなどの消毒をしていました。保健所からは、衛生管理についていろいろな指導を受けました。痰壷(たんつぼ)の設置もその一つです。当時は結核がはやっていたためです。痰壷は浴室に入ったところに昭和30年代まで置いていました。現在はレジオネラ菌などが問題になっていますが、対策として塩素を入れ、塩素濃度を測って発生しないようにしています。うちは水道水を使用しているので比較的保健所の指導も緩やかですが、地下水を使用しているところは厳しい指導があるようです。」

 ウ 燃料はおがくず

 「私が銭湯の仕事を始めた当時(昭和42年)の燃料は、おがくずや廃材(製材して残った木切れ)でした。主な燃料であったおがくずは、生(乾燥させていない状態)ですが火床が長持ちしました。一度に燃え上がらないでじわじわと燃え続け、一定の温度を保ちます。火床に、うまいことおがくずをスコップで補給し続けるのにはコツがいりました。現在おがくずは使っておらず、製材所で出る廃材だけです。釜の番を40年間続けてきましたから、今では火加減などよく分かるようになりました(写真2-1-3参照)。昔は昭和通りに6軒くらいの製材所があり、おがくずもたくさん確保できたのですが、現在はよそに移ってしまいました。昔はそれぞれの銭湯でおがくずをもらう決まった製材所がありました。おがくずはリヤカーを引いてもらいに行きました。リヤカーは、荷台の周りについたてをして、一度にたくさん運べる工夫をしていました。子どもの時に手伝いでよくこのリヤカーの後ろを押しました。うちがおがくずを取りに行ったのは、西村製材所さんと木の折箱を作っていた谷水産業さんです。そこから昭和通りを通っておがくずを運びました。当時の昭和通りはバスが走っているくらいで、車はあまり通っていませんでした。
 おがくずは、かなりな量が必要でしたので、毎日2、3回は製材所に行きました。当時は製材所も景気がよく、おがくずも多かったのです。しかし外材が中心になってから、製材所は少なくなりました。それと八幡浜は平地が狭いため、より地価が安く広い場所を求め、昭和40年代ころ大洲市や保内(ほない)町に移動していったのです。現在、うちの燃料となる廃材は、毎日保内町の山下木工までとりに行っています。向こうも廃材が処分でき、お互い様ということで無料です。夏場は、軽トラ1台分の廃材がだいたい1日分の燃料になります。燃料がおがくずから廃材に代わったのは、昭和40年代だったように思います。昭和30年代におがくずを使っていたときは、月2,000円くらいの代金を製材所に払っていたと思いますが、銭湯が減ってくるとおがくずが余り、製材所も処分に困るようになったため、基本的に無料になりました。
 うちのボイラーは、廃材やおがくずを焚(た)くような構造になっていますので、重油などの燃料は使いません。ボイラー装置は創業以来3台目になります。現在のものは平成11年(1999年)に据(す)え代えました。今はほとんどの銭湯が灯油か重油を燃料としており、自動的に燃料を燃やしてお湯を沸かすような装置になっているようです。ボイラーのお湯の温度は温度計を見て調整します。ボイラーの90度くらいの熱湯がパイプで混合タンクに送られ、水と混ぜて約70度(夏は60度)にしてから浴室に送るのです。
 うちで使う水は、昭和51年(1976年)までは地下水でした。深さ12mの井戸からいい水が出ていました。しかし、だんだん水量が少なくなったうえ、51年の旱魃(かんばつ)の時、地下水に塩分が入るようになって使えなくなったのです。この時は、なめたら分かるくらい塩分が入り、石鹸(せっけん)の泡立ちも悪くなりました。それ以降は全部水道水を使っています。八幡浜は野村(のむら)ダム(昭和57年完成)から取水しているので、断水の心配はほとんどありません。」

写真2-1-1 大正湯前景

写真2-1-1 大正湯前景

八幡浜市大正町。平成21年6月撮影

写真2-1-3 ボイラーの前で

写真2-1-3 ボイラーの前で

八幡浜市大正町。平成21年6月撮影