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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(2)どんな傘でも直してもらえる

 ア ライバルは百貨店

 「昭和30年代には、銀天街で傘専門店が3軒、専門店ではないけど傘を置いてある店が2軒ありました。大街道(おおかいどう)にも傘屋が2軒ぐらいあったと思います(『松山商工名鑑 昭和32年度版』によると松山市内の傘屋は10軒)。それと百貨店です。一番のライバルは百貨店でしたが、うちは百貨店と違って値引きができることと修理ができることが大きな強みでした。百貨店や他店で買った傘をお客さんが修理に持ってくることもありました。百貨店や他店は修理をメーカーに依頼するために時間がかかり、修理代も割高になるからです。百貨店の傘売場の店員から『クジャク屋さんなら、すぐに直してくれる。』と勧められて持ってくるお客さんもいました。百貨店や他店で買った傘も、うちで買った傘と同じ値段で修理を引き受けて直しました。そのことが、だんだんと口コミで広がっていき、『クジャク屋さんなら、どんな傘でも直してもらえる。』と言って信頼され、お客さんも増えていきました。」

 イ 夜なべで傘の構造を研究

 「昭和30年代中ころまでは、傘の修理を頼まれると出淵町(いでぶちまち)(現松山市三番町5、6丁目付近)にあった傘の修理屋さんに持って行っていました。そこで修理をしているのを見ていると、これなら自分でもできると思い、問屋に頼んで傘の部品をもらって修理を始めたのです。機械科の教員だったので、機械の修理と比べるとそんなに難しくはなかったのです。それでも昭和40年代初めに折りたたみ傘が出始めたころは、折りたたみ傘の構造がわからないので傘をばらして夜なべで研究をしたこともあります。ジャンプ傘の時も、自分で研究してバネの部分を修理する道具を作りました。新しいタイプの傘がでると構造を研究するようにしていました。そのため、昭和50年代以降はどんな傘でも構造がわかるようになり、すぐに修理できるようになりました。修理用の工具もすべて自分で作り、店の奥に1坪ぐらいの修理場を設けてそこで修理をしました。」

 ウ 風が吹くと修理で忙しい

 「傘の修理で一番多いのは、傘の骨が折れることです。風が吹いたら次の日は必ず修理がありました。台風がきた翌日などは、まとまって何本も修理がくるので忙しかったです。傘には統一の規格がなくてメーカーや製造年代によって傘の骨も鉄の骨、プラスッチクの骨、白いものや黒いもの、太さや長さも違うのでどんな傘にも対応できるように骨や部品をそろえていました。定年まで教員だったので帰宅後や休みの日しか修理ができません。なるべく早く直してあげたいので夜なべをして修理をすることも多かったです。昭和40年代から50年代ころは、その場ですぐに直すことができる簡単なものは別にして、年間に100~200本ぐらいは修理をしていたと思います。
 雨傘の良いものは、10年でも20年でも持ちます。生地の防水が効かなくなるので、10年に1度ぐらい防水スプレーをかけて防水をするとよいのです。使った後は必ず陰干しをしてよく乾かしてからしまいます。そうすると骨がさびないのです。意外かもしれませんが、傘を巻いて止めるのもよくありません。傘を巻くと、骨がねじれてしまうからです。」