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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(3)あこがれの機関士として

 ア 機関士「三種の神器」

 「機関助士を約2年してから昭和24年(1949年)に機関士になりました。機関助士から機関士になる時も試験があるのですが、私は当時の運転係長から鉄道学校に通っていたという理由で免除されました。機関士は点検ハンマー、ダイヤ表、座布団の機関士『三種の神器』を常時携帯しています。点検ハンマーは出発前の点検はもちろん、運転中に変な音が聞こえるとすぐに機関車を止めて点検するのに使います。ダイヤ表は時間通りに運転するためには必需品です。機関士や機関助士は乗務中イスに座っていますが、今の電車のように乗り心地がよくなかったので、痔になる人が多かったのです。それで座布団を敷いて座っていました。機関助士の時代に星越での車両の入れ替え作業や星越駅構内で運転はしていましたが、本線は機関士にならないと運転できません。当時の路線は、星越~端出場の本線、星越~惣開の惣開線、星越~新居浜港の港線、国鉄連絡線がありました。どの路線を運転するかは割り振りがあり、日によって決まっていますが、主には星越~端出場の本線を運転します。星越~端出場間は1日に13便ぐらい運行します。そのうち1人の機関士は1日の就業で3往復します。時間は星越~端出場へ上りが30分、端出場での積み込みが25分、端出場~星越の下りが28分、星越での積み降ろしが25分です。山根駅が中間駅で、上り下りの待ち合わせ場所になり、ポイントを切り換えていました。土橋(つちはし)駅、黒石(くろいし)駅は通過することが多かったです。」

 イ 「今日も1日安全運転ができますように。」

 「鉱山鉄道は勾配もあり曲折が多いので運転には神経を使うのですが、内宮(うちのみや)神社門前のカーブ、それから物言嶽(ものいわだけ)トンネルと車屋(くるまや)トンネルの間はカーブがきつく、勾配もきついので特に気を遣いました。朝、星越から端出場まで行く途中、内宮神社の門前のカーブに来ると、心の中で『今日も1日安全運転ができますように。』と祈っていました。1日の最後に帰る時には、『今日も1日無事故で終わらせて頂きありがとうございます。』と感謝の気持ちで運転していました。蒸気機関車時代の前照灯はカンテラを使っていましたが、光が暗いうえにすすで黒くなるので前がよく見えないのです。早朝や夜間には、線路に石がころがっていてもわからないため、ものすごく神経を遣いました。
 速度は、だいたい時速10~20kmぐらいで、30kmも出して走ることはほとんどなかったです。台風や雪の日もありましたが、雪が降って線路が滑るとか、荷物が重くて空回りする時は、線路に砂をまきながら走るのでそんなに困らなかったのです。機関車の前に排障(はいしょう)機というものが付いていて、雪や障害物を除けることができました。常に安全運転を意識していましたが、一度だけ慈眼寺(じげんじ)の前の踏切を通過した時、踏切に人が入ってきて非常停止をかけて止めたことがあります。一瞬冷汗が出たことはありますが、それ以外は特に事故もなく、無事に運転をすることができました。会社では年に1回運転技術を競う大会がありました。発車や停止の仕方、運転動作、速度観測などを競います。速度観測は、メーターを見ないで今何kmぐらいで走っているかを答えるのです。線路に敷いてあるバラス(砂利)がどのように見えるかを目安にしていました。丸く見えてからスーッと糸のように見えると、だいたい30kmぐらいでした。」

 ウ 蒸気機関車から電気機関車へ

 「昭和25年に鉱山鉄道は電化されました。電化の理由は、戦時中の乱掘で終戦直後大幅に減っていた出鉱量が回復してきたものの、機関車が蒸気機関車では対応できないことと、機関車も戦時中の酷使で老朽化していたからです。電化により前照灯が明るく見通しもよくなり、投炭の苦労からも解放されました。また、蒸気機関車の時代には室内の高温で汗だくになり、煙で顔も体も真っ黒になっていたのですが、電気機関車になってそれもなくなりました。しかし、機関助士がいなくなって一人運転になりました。乗務員も蒸気機関車の時代には機関士、機関助士、車掌、貨物車ならブレーキをかける制動夫が3人ぐらい乗車していましたが、電化されてからは助士も制動夫もいなくなって車掌が隣に乗るだけになりました。引く貨車数も増えて、制動機も特殊操作となり、慣れるまでは苦労しました。特に引く貨車の数が多くなって気を遣いました。蒸気機関車の時は最大で12両編成だったのが、電気機関車になって最大で24両編成になったのです。上りはスピードがあまり出ない(駆け足より少し早いぐらいのスピード)のでまだよいのですが、下りの場合は約8トンの鉱石を積んだ貨車を24両連結して走っていたので、勾配のきつい急カーブを曲がる時は細心の注意を払いました。以前は各貨車に手動ブレーキがついており、ブレーキをかける制動士が何人か乗車していて下りや急カーブでブレーキをかけていましたが、電化されてからは貫通制動機という機関車からエアーを送り込んで一斉にブレーキをかけるようになりました。ブレーキ操作を誤ると脱線して大きな事故につながるのです。今思うとゾッとしますが、まだ20代から30代の若いころであったので何とかできたのだと思います。下りの運転には本当に気を遣いましたが、上りの時に走りながら見える景色は、別子八景といわれているように四季折々の姿を見せて美しかったです。昭和31年からディーゼル車が惣開線、港線と星越駅での入れ替え作業に使われるようになりますが、ディーゼル車は本線を走りませんでした。」

 エ 貨車の合理化           

 「運ぶものは、下りは鉱石が中心で、それ以外では素石(すいし)という銅の入っていない石を運びます。私が機関助士のころ(昭和23、24年)の鉱石が最も質が良かったと思います。銅山が復活してきたころで、きらきらと輝いた鉱石を運んでいました。貨車も昔は平底貨車で、鉱石を積むのも降ろすのも全て人がスコップでします。大変なので次は山底貨車というのが出ました。運搬夫の人が左右の戸を開けると、手を使わずに鉱石が降ろし庫という大きな壺(つぼ)のようなものに入るしくみです。電化になってからは、片側の車輪を持ち上げる方式の平底転同貨車に変わりました。これになってからは、運搬夫もそんなにいらなくなりました。降ろした鉱石は星越駅からエレベーターで選鉱所に上げていました。下りは1台の機関車で24台を引いていましたが、上りは24台を引いて上がる馬力がなかったので、機関車を2両連結して引っ張っていました。上りは空車を持って行くのですが、坑内で使う支柱などの建築資材や、鹿森(しかもり)社宅や東平(とうなる)社宅の人々の食品やその他雑貨類を運んだりしました。
 毎年元旦の新年祭式には、別子銅山で採れた1年間で1番大きな良質の鉱石(大鉑(おおばく))を山根にある大山積神社へ奉献する大鉑祭が行われています。木枠に積んだ大鉑を端出場から山根まで運んだこともあります。
 地方鉄道時代(昭和4年11月~昭和30年1月)には、新居浜駅に行くお客さんも運びました。国鉄新居浜駅連絡線はほとんどが一般のお客さんで、星越駅で切符を買って乗っていました。客車は2、3両編成でした。朝晩の通勤時には満員になっていました。当時車掌をしていた人の話では、元巨人軍監督の藤田元司さんが学生時代によく連絡線に乗っていたそうです。しかし、昭和20年代後半からは、バスが普及し、通勤・通学など市内交通はバス中心に変わり乗客が減少したため、昭和30年1月以降は鉱山専用鉄道になりました。当時は国鉄と提携していたので、鉱山鉄道の鉄道員は職員証を見せると国鉄はどこでも無料で乗ることができました。ところが、国鉄職員にうまくそのことが伝わっていなくて職員証を見せても『これ、何ですか。』と言って運賃を請求されることもありました。
 朝と夕方は、社員を運ぶ客車が運行しており、鉱山の社員は社員証があれば自由に乗り降りできました。戦時中に乱掘していたころには、夜勤の人を運ぶため夜中の12時ころまで動いていたようです。」

 オ 84年の歴史の幕を閉じる

 「下部鉄道は昭和48年(1973年)に別子銅山が閉山になり、鉱石輸送の大動脈としての使命を終えますが、その後も採石輸送で存続していました。しかし、昭和51年(1976年)9月の台風17号による立川地区での土砂崩れにより、復旧の見通しがつかないまま昭和52年2月に廃止され、明治23年(1893年)の開通から84年の歴史の幕を閉じました。私は昭和42年(1967年)まで運転をしていましたが、その後は製造工場へ配置転換しました。20年余り鉱山鉄道の運転業務に関わりました。走っている列車を傍から見るとのんびりと走っているように見えるのですが、運転している者は事故を起こさないように常に神経をすり減らして運転していたのです。鉄道学校時代や予科練時代の苦しさや厳しさがあったので、少々苦しくても辛抱できたのだと思います。仕事がしんどくても『好きでこの仕事に就いたのだから頑張らないかん。』という気持ちでやってきました。」
 今年(平成21年)、旧山根精錬所煙突をはじめ、別子銅山関連の産業遺産5つが国の重要文化財になった。下部鉄道線路跡も昭和橋駅付近から山根収銅所付近まで、自転車歩行者専用道路として整備が進み、現在は山根駅付近まで整備されている。かつての鉱石輸送の大動脈跡は市民の遊歩道として生まれ変わっている。