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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)鉄道学校から予科練へ入隊

 ア 国鉄にあこがれ鉄道学校へ 

 「生まれは新居浜ではなくて大三島(おおみしま)です。現在の多々羅(たたら)大橋の近くで生まれました。今は今治(いまばり)市上浦(かみうら)町になります。尋常高等小学校を卒業して昭和17年(1942年)に広島の糸崎(いとさき)鉄道学校に進学しました。当時は島に高校がなかったので、進学するには今治の学校へ行くか、広島の学校へ行くしか方法がありませんでした。私は国鉄へ入りたかったこともあり、広島県三原(みはら)市にあった糸崎鉄道学校へ進学したのです。鉄道学校は三原駅の東側にありました。3年制の学校で、2年生からは業務科と機関科の2つの学科に分かれます。業務科は、駅勤務を目指す人が、機関科は機関士になりたい人が選びます。私は機関科を選びました。学生は全国各地から来ており、全校生徒が1,000人ぐらいいました。卒業生は、国鉄はもちろん、戦時中だったので満鉄(南満州鉄道株式会社)や朝鮮鉄道にもたくさん就職していました。学校の寄宿舎に入っていたのですが、先輩が礼儀やマナーに厳しくて苦労しました。」

 イ 憂国の気持ちに燃えて

 「昭和20年(1945年)春の卒業予定でしたが、戦局が悪化したころでしたので、憂国の気持ちに燃え、自ら志願して昭和19年(1944年)9月に予科練(海軍飛行予科練習生)に入隊しました。私は甲種飛行予科練習生として、今の松山空港のある場所にあった松山海軍航空隊へ入隊しました。1年ぐらい訓練を受けたのですが、昭和20年7月26日の松山大空襲で、兵舎も何もかも焼けてしまい訓練を続けることができなくなったのです。その後は徳島県の穴吹(あなぶき)の山間部で松根(しょうこん)作業(当時は燃料がないので松の根に切り込みを入れて油を採っていた。)に従事したり、高知県の宿毛(すくも)で米軍の上陸に備えて広角砲を設置する作業に従事して終戦を迎えました。終戦後は物資や食糧を米軍に引き渡す作業をした後、昭和20年10月に復員しました。」