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えひめ、昭和の街かど-生活を支えたあの店、あの仕事-(平成21年度)

(1)手作りへのこだわり-家具職人-①

 松山市萱町は、明治から大正にかけて11、12軒のタンス屋があり、タンスの町といわれた。戦後もタンスの町として賑わいをみせるが、かつての製造中心から販売中心になり、昭和30年代前半に20軒あった家具・タンス店も現在ではわずか7軒になっている。
 昭和28年(1953年)に、松山市萱町の家具店に弟子入りし、今日まで半世紀以上家具職人として手作りの家具にこだわり、タンスを中心にさまざまな家具を作り続けている**さん(昭和11年生まれ)から家具職人の仕事と生活について話を聞いた。

 ア 見習い時代

 「私は上浮穴(かみうけな)郡小田(おだ)町(現喜多(きた)郡内子(うちこ)町)出身で、地元の小学校、中学校を卒業しました。中学校を卒業して農業をすることも考えたのですが、モノ作りが好きだったので家具職人を志しました。中学校卒業後、父親と一緒に松山で弟子入り先を探したのですが、すぐには見つかりませんでした。1年ほど家の手伝いをしながら探し、昭和28年に萱町の阿部タンス店に弟子入りしました。親方は年齢が22歳で、独立して間もないため、弟子は親方の弟と私の2人だけでした。店の2階にある3畳の間に兄弟子である親方の弟と私が寝泊りしていました。賄いはあるのですが、夕方になるとお腹が空(す)いてたまらなくなって、こっそりと向かいのお店に行って食パンの固くなったものを安く分けてもらって食べていました。給料は小遣い程度で、最初は100円ぐらいだったと思います。朝は8時から夜は7時ころまで仕事をしていました。2年目からは忙しくなって、夜10時ころまで仕事をすることもありました。休みは毎月1日と15日で、後は盆と正月でした。
 最初の仕事は、タンスの底板を作る作業でした。杉板を40cmぐらいの長さに切って耳の部分を鉈(なた)でおとして鉋(かんな)で真っ直ぐに揃えます。最初だけ親方がやり方を見せてくれ、後は自分でやっていきます。次に板を合わせて幅90cmにして糊付けをして貼っていきます。糊はご飯をおしつぶしたおし糊を使います。今はボンドを使いますが、私はそれにおし糊を混ぜています。この作業を一月半ぐらいし、できるようになると鉋の研(と)ぎ方と削り方を教えられました。その次はタンスの枠を作りました。あらかじめ親方が墨を入れているので、その通りに切って枠を作ります。そして、引き出しや衣装盆(着物など衣装をしまうお盆)を組み立てる作業をしてタンスを作っていきます。それを何回も繰り返します。それらが一人でできるようになると、重ねタンスや扉の作り方などを習っていきました。そうやって職人としての基本を勉強しました。職人の世界では、最初に約束した年季が来ると、その弟子が上手(うま)くできる、できないに関係なく教えてもらえるのはそれで終わりになるので、少しでも上手くなろうと必死で頑張りました。タンスを作ることが上手くなると、親方から与えられる材料がだんだんよくなってくるのですぐにわかります。年季は4年でしたが、米や麦など食糧を持ってくると半年縮めるという約束をして、3年半で明けました。年季が明けてからは、職人として5軒の家具屋で腕を磨きました。
 私が弟子入りした昭和28年は、まだこの辺はバラックの建物がほとんどでした。それが、だんだん木造の家に変わっていく時代だったので、タンスや家具はよく売れました。その当時、萱町に家具屋やタンス屋が20軒ぐらいありました。まだ東予や南予にタンス屋がほとんどない時代だったので、県下各地から萱町へタンスを買いに来ていました。職人も200人以上いたと思います。大きいタンス屋は20~30人の職人を雇っていました。」

 イ 自分の店を持つことを決意

 「私が弟子や職人の時代は全て無垢(むく)の木を使っていましたが、昭和30年ころからつき板(美しい木目をもつ木材を薄くスライスしたもの)を貼(は)る工法が出てきました(写真1-1-24参照)。最初は鉋くずを貼っているなどと言われていましたが、曲がった部分でもどこでも貼れるので、昭和30年代後半以降には一般的な工法になりました。今のタンスはつき板を貼るのはいいほうで、安いものはプリント(木目を印刷したもの)を使っていると思います。店を開く前に勤めていた家具屋はつき板を使うことが上手でした。つき板を使った婚礼セットを作って愛媛県主催の家具コンクールに出品して優良賞をもらいました。賞をもらうと家具やタンスがどんどん売れるのです。店の名前で出品していますが、賞をもらったタンスは私たち職人が作ったものなので自信を持ちました。『これならやれる。どんな苦労をしても自分で店を持とう。』と決意し、昭和38年(1963年)に自分の店を開きました。他所(よそ)の店で買っているお客さんにうちの店に来てもらうために、安くて良い品物を作ろうと必死で働きました。タンスの良し悪しはすぐにお客さんにわかってもらえませんが、それでも引き出しの調子など一つ一つを丁寧に作りました。朝8時から仕事を始めて夜は7時ころまで仕事をしていました。雇われた職人だと仕事場への行き帰りの時間で1時間ぐらいかかりますが、私はそれがないので1時間余分に仕事ができます。その分、丁寧な仕事でお客さんにサービスとして還元できるという気持ちでやっていました。」

 ウ 手作りのタンスにこだわる
           
 「昭和33年(1958年)から愛媛県主催の家具コンクールが夏に開かれ、県内各地の家具屋が出品していました。私も昭和40年に優良賞を頂いて以来、連続で賞をもらいました。審査の後、出品した家具の品評会があり、婚礼セットを買いたいお客さんなどがたくさん見に来るのです。お客さんは品評会で気に入った家具があると、店に来て注文をしてくれます。10月のお祭りが終わると忙しくなります。当時のお客さんは農家が多かったので、秋の収穫の時期が終わるとタンスの注文がたくさんきていました。春に結婚する人も多かったので、婚礼セットの注文がたくさんありました。昭和40年代中ころには、半年後まで注文でいっぱいになったこともあります。結婚を控えたお客さんに、結婚式に間に合わないからと注文をお断りすると、結婚式の後になってもよいので作って下さいと言われたこともありました。
 昭和40年代は家具やタンスがどんどん売れた時代でした。職人が手作業で作っていたのでは生産が間に合わないということで、昭和40年ころから広島県の府中(ふちゅう)や福岡県の大川(おおかわ)の家具屋では、機械による大量生産が行われていました。それをまねて新居浜(にいはま)の家具屋が大きな機械を導入して大量生産を始めました。私が1か月一生懸命作っても婚礼セットは1セットしかできませんが、機械生産なら1日に10セットもできるのです。見た目にきれいな家具ができるので、昭和40年代中ころからだんだん機械で作った家具が売れるようになりました。私たち職人が作る家具やタンスはだんだん下火になってきました。家具屋からすると職人を雇ってタンスを作って売るよりも、大量生産している店へ注文するとすぐに品物が届くので手間がかからないのです。それでこの辺の家具屋も次第に職人を雇ってタンスを作るのをやめ、仕入れたものを売るようになりました。そのため、職人が一人、また一人と姿を消していきました。それまでタンスや家具を作っていた店も、見本市や展示会などで気に入った家具を仕入れて店に置くようになったのです。人を雇って県内各地にセールスにも出るようになりました。周りの家具屋は仕入れて売ったほうが楽で良いと言っていましたが、私は機械で作られた家具やタンスの作り方に納得ができなかったので、今まで通り手作りのタンスを売りました。機械で大量生産されたタンスは、職人が作るタンスよりも値段が少し安かったので、値段もそれに合わせました。儲けは少なくなるけど自分が納得したものを作って売りたかったのです。私は全て自分一人でやっていたので値段を下げることができたのですが、職人を雇って作っている店はそうすることは難しかったと思います。」

 エ 本物の木を使ったタンスが売れないわけはない

 「昭和50年ころから生産過剰になり、機械で作られた家具が売れなくなってきました。値段も下がってきたのですが、それでもあまり売れなくなっていたと思います。私は値段を下げることはしなくて、手作りの良さを訴えていきました。当時は合板を使ってつき板を貼る工法で作っていましたが、お客さんから少々値段が高くなっても合板でない本物の木を使って作って下さいという声がだんだんと多くなりました。本物の木を使ったタンスが売れないわけはないという確信を持ち徐々に切りかえていきました。48歳の時から取り組み始め、ようやく最近になってある程度納得のいくものが作れるようになってきました(写真1-1-26参照)。周辺の家具屋ではやめていくところもありましたが、平成の最初ころまでは何とか商売できていたと思います。家具屋が決定的な打撃を受けたのは、平成7年(1995年)の阪神(はんしん)・淡路(あわじ)大震災です。あの時に家具の転倒による圧死で多くの人が亡くなったからです。当時は2mぐらいの大型の家具が主流になっていたのですが、地震以降はそれが全く売れなくなったのです。それで家具屋がダメになったのです。地震以後はタンスに代わり、クローゼットや備え付けの家具が主流になりました。」

写真1-1-24 つき板

写真1-1-24 つき板

松山市三番町。平成21年9月撮影

写真1-1-26 手作りのタンス

写真1-1-26 手作りのタンス

平成21年9月撮影