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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇聞き書きが持つ力と可能性

 わたしは、聞き書きが持っている大きな可能性をとても信じています。わたし自身が、聞き書きの旅のなかで、たくさんのおじいちゃんやおばあちゃんの人生と出会い、そこでいろいろなことを教えられ学ばせてもらいました。それらの大きさを考えただけでも、そのように言えると思います。そしてわたしは、聞き書きの結果をできるだけおじいちゃんやおばあちゃんにお返ししたいと思っています。ですから、書くことを必ずします。「山形まんだらを織る」の連載では、約250人の方々の話を2年間で聞いて歩きましたが、連載の中では一人も落としていません。記事は、全部で原稿用紙800枚くらいの分量になりましたが、その800枚の中に250の人生を全部取り込んだのです。人生を一つ一つ積み重ねることによって、むらの歴史が見えてくる。そして、さらに幾つかのむらが重なり合うことによって、山形というもう少し大きな地域の歴史とか文化、すなわち風土が見えてくる。わたしは、聞き書きというものが持っている力とか可能性は確実にあると考えています。
 例えば、今から5年ほど前のことですが、わたしは大学で半年間、聞き書きをテーマにした講座を持ちました。その時には、400人を超える学生が受講し、わたしは、自分の聞き書きの体験を語りながら講義を進めました。そして、夏休みに課題を出したのですが、それは、夏休み中におじいちゃん、おばあちゃんから人生を聞き書きし、原稿用紙7、8枚にまとめてくるというものでした。この課題を伝えた時に、教室内の空気がザワザワッと動いたのを覚えています。そうして学生たちは夏休みに入っていきました。何が返って来るのか楽しみでもあり、でもあまり期待をしないほうがいいという思いもあって、なんだか複雑な気持ちで待っていました。
 夏休みが明けて、レポートが集まりました。数は350くらいでした。後で聞いた話ですが、学生たちの間では、それぞれがどのような内容のレポートを仕上げてきたのかが、けっこう話題となっていたということです。学生たちにとって聞き書きは、大きな、またある意味では初めての体験だったのです。今の若者たちは、自分のことを語るのが苦手ですが、人の話を聞くということもとても苦手です。ましてや、お年寄りの話を聞くなんて、彼らはほとんどしたことがない。でも、わたしは彼らに、聞き書きをしなければレポートが書けないようなテーマを与えたのです。そして、提出されたレポートを一つずつ読んでいった時、わたしは正直に言って、大変な感動を覚えました。
 一緒にくらしているおばあちゃんの話を初めて聞いたという学生がいました。それまで、むっつりとして一言もしゃべらなかったおばあちゃんが、一生懸命自分の人生を語ってくれた。それを聞いているうちに、そのおばあちゃんがいなければ、自分の父親もいなかったのだなと思ったのです。そして、自分の父親がいなければ、ここにいる自分もいないのだ。つまり、ここに生きている自分というのは、一人ではなくて多くの人々とつながっている、生かされて、今ここにあるというようなことを、漠然とではありますが彼らは感じたようです。
 ところで、提出されたレポートの3分の1くらいに共通して、平仮名で5文字、漢字ならば2文字の言葉、この二つの言葉は意味がほとんど同じなのですが、その言葉が出てきました。皆さん、どういう言葉だったかお分かりになりますでしょうか。周囲から「今時の若者は」と顔をしかめながら言われるような彼らが、大まじめにその言葉をレポートに書いているのです。「おばあちゃん、ありがとう。」「こういう聞き書きのような形でおじいちゃんの人生に出会えたことに感謝します。」これを読んだとき、わたしはギョッとしました。こうした表現が一つや二つではないのです。350のうちの3分の1くらいのレポートに、「ありがとう」「感謝」という言葉が出てきたのです。わたしは、道徳の講義を行っているのではありませんから、こういう結果は予想していませんでした。ぼう然とするとともに、大変感動しました。
 つまり、夏休みの課題という形ではあるものの、彼らは生まれて初めてお年寄りたちとじかに向き合った。そして、ある学生のレポートにあったのですが、おばあちゃんがあるところまで語ってくると、言葉に詰まって涙を流しながら沈黙してしまった。自分はどうしていいか分からなくて、ずっとそのまま待っていたと言うのです。おそらくこの学生には、今までにそうした体験がなかったのでしょう。お年寄りたちの人生にじかにぶつかるという体験が、自分が今ここに立っている、つまり生きているのは、親があり祖父母があってその命のつながりのお陰であるということを知らせてくれた。あるいは、おばあちゃんやおじいちゃんが生きてきた人生のある種の豊かさに触れた時に、自分も頑張らなくてはという励ましを与えられた。そういう体験ではなかったかとわたしは思います。
 350のレポートは、思わず添削をしたくなるような、とんでもない誤字や脱字だらけのものが大半でした。しかし、そうしたことには関係なく、そこに書かれている内容にわたしは感動しました。
 何度も申し上げていますように、わたしは、聞き書きの持っている潜在的な力はとても大きいと思います。そして、わたしのような学者や研究者が行う聞き書きと、高校生や大学生といった若者たちが行う聞き書きとは全く違ったものとなり、また聞き手にとっても全く異なった体験になるということは、はっきりしています。聞き書きをとおして、人と人とが出会う。その出会いのなかには、豊かな可能性がはらまれているとわたしは信じています。
 ですから、聞き書きや聞き取りを大事な方法としている地域学として、おそらく全国で唯一のものである愛媛学が、大事に育っていってくれるといいなとひそかに思っております。