データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇山形まんだらを織る旅

 こうした一人一人の小さな人生を聞き書きして歩くことを3年間ほど続けた後、今度は地元の新聞に毎週1回、「山形まんだらを織る」というタイトルの聞き書きの連載を2年間続けました。原稿用紙にして8枚分の連載を新聞に毎週続ける。しかも、すべて山形県内で聞き書きをしながらの執筆でした。わたしにとっては、かなり大変な仕事だったのですが、次にその話をさせていただこうと思います。
 山形県を非常に簡略に説明しますと、県内には1,000m級の山が10くらいあります。そしてその山々から流れ出た川が、「五月雨を集めて早し最上川」と松尾芭蕉によって詠まれたことでよく知られている最上川に集まって、日本海に注いでいます。また、山形には、出羽三山(でわさんざん)と呼ばれる修験の山として有名な山々があります。山があり、川沿いには盆地があって、河口には平野が開けている。このような山形の地形を眺めながら、わたしはこの山形の風土を丸ごとつかみたいと思いました。
 まず1年目は、山の麓(ふもと)のむらのうち10か所を訪ねようと考えました。山の麓のいろいろなむらに繰り広げられてきたくらしやなりわいを聞いて歩き、それを「山野の章」としてまとめました。2年目は、今度は川を幾つかたどり、それから海沿いの幾つかのむらを訪ね、さらに日本海に浮かぶ飛島に渡って、川や海、島のくらしを聞き書きで追い掛けました。こちらは「河海の章」としてまとめました。むらと言ってもその規模はせいぜい大字(おおあざ)くらいで、例えば調査したなかで一番小さい集落は、戸数が17戸でした。そして、それぞれのむらでは、十数人の老人たちにその地域の歴史や人生を聞いて歩きました。この山野と河海の二つを重ね合わせることで、山形の風土の大きなイメージをとらえることができるのではないかと考えたのです。そして、それをわたしは「山形まんだら」と名付けました。「まんだら」とは、諸仏や菩薩(ぼさつ)などが一面に描かれている図のことですが、わたしの頭の中にあったイメージは、山形という一つの地域に、さまざまなくらしがまんだら図のように展開しているというものでした。
 まず、「山野の章」の聞き書きから始めたのですが、そのうちに、山形の山村における昔からのくらしの様子が、これまで報告されてきたものとは全く違う風景として見えてきました。それはどういうことかと言いますと、これまでの民俗学研究者の手による報告書や民俗誌では、例えば生業の項目を開きますと、最初に必ず稲作が出てきます。稲作についての記述が延々と続き、その後に畑作やその他とあって、さらに副業などの記述が少し続くというスタイルです。わたしは、その時まで、このスタイルの報告書や民俗誌ばかりを見てきましたから、山形の山村のくらしもそれほどかけ離れたものではないだろうと思っていました。ところが、現実にはかなり様相が違っていたのです。
 先ほども触れましたが、日本の民俗学は柳田国男によってその骨格が作られたのですが、それは、稲作中心の見方が非常に強いものでした。この四国においても、平野部であればそれは当たり前なのかも知れません。しかし山間部に入ると、例えば高知県吾川(あがわ)郡椿山(つばやま)ではかつては焼畑が行われ、稲作農家とは全く違ったくらしが営まれていました。同様に、山形においても、山村のほとんどで焼畑が行われていたのです。わたしはこのことを、聞き書きを始めるまでは全く知りませんでした。山形では焼畑のことを「カノ」と呼びます。焼畑というのは、大きな木を切ったり草を刈り取った後の山の斜面に上から火を付けて焼き、まだ灰がくすぶっているところに作物の種をまくという原始的な農法です。けれども、雑草が生えにくく害虫も付きにくいので、火を入れてから3、4年間は、ほとんど手入れをしなくても作物が取れます。1年目にソバを作り、その傍らにカブの種をまく。2年目以降はアワとかダイズやアズキをまくというように、年ごとに作物を変えます。そして耕地は3、4年間使用されると放棄され、また別のところに畑が開かれます。
 ところが、先ほどお話ししましたように、わたしがこれまで見てきた報告書には、ほとんど焼畑の様子などは書かれていなかった。あったとしても、せいぜい「昔はカノをしていた。」程度の記述なのです。しかし、7、80歳代の老人に話を聞くと、終戦後も少しの間はくらしに必要な穀物のほとんどをカノによって手に入れているのです。ですから、今でも山形はソバが非常においしい土地ですね。「ソバ街道」というような形で、観光の一つの目玉にもなっています。またカブについても、西日本のカブは常畑で作りますが、東日本のカブは焼畑で作られることが多かった。したがって山形のカブも、「カノカブ」と言って焼畑のカブです。わたしが訪ねたむらでは、ゴボウのような形をしたカブを作っていました。その一方、日本海沿いの温海(あつみ)町で作られている赤カブは、丸い形をしています。「冬の間の食事はカブと汁だった。」と語ってくれたおじいちゃんがいましたが、カブは大切な食糧だったのです。
 日本人は米を主食としてきたと、案外無造作に言われるのをよく耳にします。しかし、聞き書きの旅を続けていますと、とりわけ東北においては、それがある種の先入観に過ぎないことが分かります。そして山形でも、焼畑で作られるソバやカブなどが食糧の中心をなしていた。山村でも米は作るのですが、それは本当にわずかです。田んぼは斜面に開かれていますから、1枚が非常に小さい。自分の家の田んぼを数えていったところ、99枚まで数えたけれども最後の100枚目が見付からない。もう1枚はどこにあるのだろうと思って足元を見ると、自分が脱いだ蓑笠(みのかさ)の下にその1枚があったという昔話があります。そのくらい小さな田んぼばかりだったのです。
 ですから、米で生活が成り立つはずがない。米は、年貢などの税として納めるためにわずかな田んぼで作りました。話を聞いたおじいちゃんたちは、小作料や税金のことも年貢と言っていました。おじいちゃんたちのくらしは、焼畑でソバやダイズやカブなどを作る。さらに、ワラビやゼンマイなどの春の山菜採りから始まって、秋のキノコ採りに至るまで、豊かな山の幸を利用するものでした。そして冬になると、狩猟を行いました。鉄砲を担いで雪の野山を駆け回る人たちがどこのむらにもいたのです。
 また、わたしが訪ねたむらのうちの4か所ほどでは、春のクマ狩りが行われていました。クマ狩りというのは、雪解けの季節に、10人から20人ほどの集団を作って行う巻き狩りのことです。勢子(せこ)がクマを周囲から追い上げて、追われて逃げる方向には猟師が鉄砲を構えて立っている。このクマの巻き狩りが行われているむらは、本格的な狩猟文化が残っている所と言えます。
 こうしてみると、今まで語られてきた東北の山村の光景とはかなり違っていますね。つまり、稲作が中心ではなく、焼畑を行い、狩猟や採集を非常に大切にして、それらを複合的に組み合わせるくらし、そして雪に閉ざされる冬にはカンジキを作ったり、蔓(つる)細工のかごを編んだりする。そういうくらしが展開していたのです。付け加えますと、和紙の紙漉(す)きをするむらもありましたし、「シナ織り」と言ってシナノキの皮の繊維から布を織ることも行われていました。そして、それらは女性の仕事でした。
 こういうさまざまな仕事は、季節の移り変わりに合わせて、見事に組み立てられていました。それは、現代の稲作農村の農事暦とは全く違います。幾つもの仕事が同時並行で行われています。「山のくらしは段取りだよ。」とよく聞くのですが、全くそのとおりで、段取りが悪いとくらしそのものが成り立たない。そういうくらしの形を、聞き書きの中で教えられました。その時にわたしは、東北地方の山村には、縄文時代の昔から現在まで、数千年にわたるくらしの伝統が残っているのではないかと思ったのです。