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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇七折小梅の歴史

 七折小梅の産地、砥部町七折地区は、梅の栽培には古い歴史があり、すでに明治時代後半には営利目的で栽培されていたようです。大正時代になると、軍隊の常備食として梅干しが必要となり、七折地区でも梅の栽培面積の増反(ぞうたん)が急ピッチで行われ、生産量も増えていったようです。さらに、昭和初期には、ますます軍隊からの需要が増大し、梅栽培が盛んになっていったようです。しかし、昭和20年(1945年)の終戦と同時に梅の実の需要は激減し、地区内の梅の木はほとんど切り倒され、芋が植えられたり麦畑となりました。こうして、七折地区の梅栽培は次第に忘れられ、わずかに行われるに過ぎなくなりました。
 こうした一方で、七折地区は谷あいの集落で水田が少なく傾斜地の多いことから、昭和30年(1955年)ころより、ミカンを中心にカキやナシなどの栽培が盛んに行われ、農家の収入の大部分はミカン栽培によって支えられてきました。もともとこの地区は、1日当たりの日照時間が平野部と比べて短く気温も低めであることから、ミカン栽培に関して他の産地に比べて決して恵まれた条件とは言えなかったのですが、全国的なミカン生産のブームに乗ったわけです。昭和40年(1965年)ころには、ミカンの県内生産量は200万tから300万tにも上っていました。しかし、昭和42年、ミカンの価格の大暴落が起こりました。こうしたことで、気候条件に恵まれない七折地区が将来にわたってミカン栽培を続けても、産地間競争で生き残ることは難しいと判断したのです。そして、この時期にミカン栽培から梅栽培へのバトンタッチが行われました。