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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇伯方の誇り

 伯方町が世に誇れるものは、いろいろあると思います。そして、そのなかで特筆すべきことの一つが、かつては、最大で年間2万t以上もの塩を作っていたことだと思います。しかも、伯方における塩作りが、素焼きの土器で海水を煮て塩を作っていたという土器製塩の時代から、途中で中断されることなく、現在まで続けられている。少なくみても、千六、七百年前からずっと作り続けられているということは、やはり世に誇っていいことだと思います。
 塩作りは、まず直煮や藻塩焼きから始まり、その後に、先ほど村上さんが御説明された揚浜式塩田と入浜式塩田が登場し、そして、流下式(りゅうかしき)塩田へと移っていったのが大きな流れです。そして、これも先はどの村上さんのお話にあったとおり、揚浜式塩田が伯方にあったことを直接に示した文書はどうも見当たりません。
 ところが、慶応2年(1866年)の古文書がありまして、これは昔の聞き伝えなどをまとめて手習いの手本としたものなのですが、そこには、木浦(きのうら)地区の様子が順番に書かれています。その中に、「明神(みょうじん)(地名)、この下には新田が多し。このところは昔、塩浜なり」という記述が見えます。現在では、塩を作るところは塩田と言っていますけれど、かつては塩浜と言っておりました。「よって、塩竈(しおがま)明神(塩竈神社のこと)の古い社はここにあった。そのいわれなり。」ということが続いて書かれています。それから、木浦地区の沢津(そうず)についての記述もありまして、その中に「ここより、古江(ふるえ)塩浜」と出てきます。この古江塩浜や先はどの明神の塩浜は、おそらく揚浜式塩田だったと思います。
 それでは、揚浜式塩田と入浜式塩田との違いはどうなのかと言いますと、揚浜式塩田は満潮時の海水面より上に塩田を造ります。これに対し、入浜式塩田は、海を堤防で閉め切って、満潮時の海水面より下に塩田を造ります。したがって、揚浜式塩田よりも石垣や堤を造る高い技術が必要となります。ですから、やはり城の石垣とか、新田開発のための石垣や堤を造る技術ができて、初めて入浜式塩田を造ることも可能となったと思われます。決して塩水から塩を取り出す技術面だけで、塩の作り方が変わっていくものではないということが言えると思います。