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わがふるさとと愛媛学Ⅶ ~平成11年度 愛媛学セミナー集録~

◇カントリとは

 ここまでに何度かカントリという言葉が登場いたしました。そこで、カントリにつきまして改めて説明しておきましょう。カントリという言葉が史料に盛んに出てくるのは鎌倉時代で、彼らは、網元と製塩業、廻(かい)船業を兼ね、さらには地主でもあるというように、漁村の実力者でした。したがって、自分の土地を短冊形に切り、そこで子分の網子たちに作物を作らせるということもしていました。
 次の南北朝時代になりますと、カントリという言葉は記録上にほとんど見えなくなってしまいます。しかし、だからといってそういうたぐいの人間がいなくなってしまったのではありません。それは、鎌倉時代に蒙古(もうこ)襲来、すなわち文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)が起こりますが、この戦いの後、瀬戸内海の治安が悪くなりました。それで、カントリたちは盛んに武装化を進め、やがて「海賊衆」・「警固衆(けいごしゅう)」と呼ばれるような武装集団へと変化します。そして南北朝時代のころには「海賊」とか「海賊衆」などと呼ばれていました。彼らが水軍と呼ばれるようになったのは、昭和8年(1933年)からのことです。
 喜多浦八幡大神(きたうらはちまんおおかみ)神社(越智郡伯方町北浦)には、27枚の棟札(むなふだ)が保管されています。棟札とは建物の新築や修理の際に、棟木や梁(はり)などに打つ木の札のことで、それには社殿、拝殿の造営の記録とともに、施主や神主・大工・世話人などの名が記されています。喜多浦八幡大神神社に伝わる棟札のうち最も年代の古いものは、南北朝時代初頭の延元2年(1337年)の銘が記されています。そして、この棟札には、その当時の伯方島北浦のカントリたちの名前が記されていて、中村七郎兵衛、弓場(いば)二郎右衛門、池田善兵衛、脇新左衛門、ともかの甚兵衛などの名が見えます。このカントリたちが支配していた場所は大体分かります。池田は現在の地区名として残っています。また、脇とは喜多浦八幡大神神社の少し南側の地区です。それから、中村とは、今の黒町あたりだと考えたらいいと思います。黒町は、明治のころまでは中村と呼ばれていたそうです。そして弓場は、弓場井の辺りです。ただ一つ分からないのは、ともかの甚兵衛の「ともか」です。「ともか」というのは、北浦地区のどこにあったのか。これだけがいまだに分かりません。
 ともかく、南北朝時代になりますと、カントリたちは武装化し、刀を差し、名字を名乗るようになります。そして、やがて海賊と呼ばれるようになるのですが、この変化を見ますと、鎌倉時代にカントリと呼ばれた連中は、南北朝時代になりますと、海賊方(かいぞくがた)、つまり海上警備保障のような役割を果たしたものと、製塩方とに仕事が分業していったのではなかろうかと思われます。そして、海賊という人聞きの悪い言い方をしてはならないとなったのは、弘治元年(1555年)の厳島(いつくしま)合戦(安芸国厳島での毛利元就と陶晴賢との戦い)以後のことであると言われております。