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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇戦後の文楽としてのはじまり

 鬼北文楽の始まりは、まずは人形を使わない素(す)浄瑠璃でした。その発端は、戸数40戸ぐらいの岩谷(いわや)という小さな地域でした。そこは戦前から浄瑠璃が盛んで、徳島からも浪太夫という浄瑠璃語りが寄宿して指導しており、ほとんどの人が浄瑠璃のさわりなどを主に語っていたようです。太平洋戦争後、外地から兵隊や引き揚げ者が帰ってきて、にわかに地域がにぎやかになり、何かやろうということで始まったのが、浄瑠璃なのです。娯楽のないころであり、珍しさもあって参加者も多く、発表会は盛況をきわめたものでした。師匠連中は、昔浪太夫の指導を受けた人を中心に巧者な人も数名おりました。三味線弾きも2名おり充実していました。冬の農閑期の2か月ぐらいが浄瑠璃のお稽古(けいこ)です。大体、旧正月に「語(かた)りあげ」という発表会をやりました。しかし、わずか2か月で語りあげができるはずはありませんので、まあ皆慰みでやっていたようなものです。
 岩谷地区には人形が2、3体あり、器用に遣う人もいました。ふとしたきっかけで、この人形を遣うことになりました。たまたま、公民館のアトラクションに発表したところ、大変な好評でした。やがて、上村平太夫一座の人形を買い取られた毛利善穂さんから人形を提供していただき、人形遣いも他地域から参加するなどしてきたので、昭和28年(1953年)に「鬼北文楽」と名付けて文楽振興会を結成したのです。
 以後、浄瑠璃は人形遣いに取って代わられた感じとなりましたが、師匠連中もだんだんに物故され、また後継者の養成を怠ったせいもあり、公演不能となったのです。さらに、人形も火災にあい、ついにその活動を停止することとなったのです。