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わがふるさとと愛媛学Ⅴ ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~

◇巨樹との出会いと〝おどろき〟

牧野
 スライドはこのくらいにしまして、では本論に入らせていただきます。
 まず、巨樹との出会いということは、どういうことなのかということです。これは、屋久島の縄文杉に出会ったとか、あるいは地元小田町の、イチョウの大きい木に出会ったりしますと、その時にだれもが感じるのは、その木というものに対する驚きなのです。それも、ただびっくりしたというだけではなく、心の中に衝撃が走るのです。さらに、その衝撃の中身は何かというと、非常に怖いような、恐ろしいようなもの、ゾクゾクするような感じ、それから偉大であるような感じなどいろんなものが入り混ざったものなのです。それが巨樹との出会いの第一印象なのです。
 では、この第一印象というのが何かというと、それは日本人にとっては、カミ様なのです。漢字で書かないで、カタカナでカミと書いたほうが間違いないのです。
 本居宣長という人は、『古事記伝』を30数年かかって書き上げたのですが、その中で、カミ様について、『カミ様というのは偉大なものだけではなくて、恐ろしいようなもの、普通と違うようなもの、そういうようなものも、全部カミ様である。だから草も木も、動物もカミ様のうちに入るんだ。』というようなことを言っているわけです。
 次に、大自然に対する驚きというものは、何であろうかというと、大自然の持つ大きなエネルギーに人間がびっくりすることなのです。なぜびっくりするかというと、人類は生まれてこのかた、それだけの力を持っていないからなのです。この力には二つありまして、一つは知力であります。別の言葉で言えば、なんでこうなるのかという科学的な知識です。それから二つ目は技術力です。例えば、台風が来たら、今でしたら鉄筋の建物があれば平気ですが、昔だったら倒れてしまい大自然の力には、かなわなかったのです。つまり、昔は技術的な分野と物事の本質は何かという知力の分野で、人間は徹底的に大自然の力に負けていたわけです。
 ところが人間がだんだん力を得てきました。特にその力は、産業革命以後急速に身につけてきたのです。そして、現在では文明の中に情報革命が起きております。これだけ人間が力を持ったら、今度は大自然をばかにしだすわけです。そしてカミ様というものをあなどってしまい、現在では、カミが不在だと言われるほどに、力関係が逆転してきたのです。しかし、巨樹との出会いとは、簡潔に言えば、カミ様との出会いであり、古代の感覚になるのだということです。
 もう一つ大切なことを申し上げますと、東京の高尾(たかお)という所には、『大菩薩峠』で有名な中山介山も行った琵琶滝(びわだき)という滝があります。ここには、夏場になると関東各地から何人もの人が来て、何日も近くの旅館に逗留(とうりゅう)してその滝に打たれて帰ったのです。何のためかというと、滝に打たれることによって、自分というものを自覚するためなのです。このことは、巨樹との出会いでも同じで、単なる出会いではなくて、恐ろしいような、どきっとするようなものに触れ合うことによって、普段は漫然と考えていた自分というものが、何であるかということを、どきっとして感じるわけです。これは今日で言う自立の問題につながるのです。これには、日本人が日本人であるということに目覚めるのには、どうしたらいいかという、逆の答えも入っていると思います。
 ですから巨樹に出会って、どきっとしてみたり、びっくりしたりすることは、今の人間が水木しげるの幽霊の話やおばけの話に触れることによって、失われようとする自分というものを取り戻そうとする無意識な生理現象と同じなのです。したがって現在、全国的に巨樹についての関心が高まっているということは、木を大事にしましょうという流れとは別に、自分自身がどうなっていくか分からない、いったい本当の自分とは何であるのか、その存在確認の無意識の機能が働いているというふうにも解釈できると思います。