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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇テレビが文化を破壊する

 こうしたことわざを、それぞれの家庭で、あるいは村の中で、耳ざわりでない、いい節回しで伝えてきた。その結果、その土地のくらしの型が崩れないで保たれていた。それが、次第に崩れてきます。その大きな原因は、私はテレビだと思います。
 テレビというのは、その土地のクセを無視したものです。早い話が、方言を使ってはテレビ番組は成り立ちません。そこで「テレビ標準語」を使います。「テレビ標準語」で表現できないことが、それぞれの土地にはたくさんある。しかし、「テレビ標準語」は、これをならしてしまいます。ならすだけならよろしいのですが、そこで話されるスピードが、だんだん早くなってきています。1分間にどれだけの言葉を詰め込むかが重視されている。それでしゃべり合い、怒鳴り合いをしているわけです。相手の話を聞いてそれに答えていくというキャッチボールをしていない。これにだんだん耳が慣れているのが現状です。私に言わせれば、テレビは、便利なようでも、各地方の文化を、ならすのではなく破壊してしまったわけです。もし、私たちが、その地方のクセを、大事な生活の原則を、言い換えれば文化を伝えていこうとするならば、テレビから離れないと、ちょっと無理だろうと思います。
 しかも、一方で核家族化が進んでいます。親子の関係というのは、文化伝承の場としたら、十分ではありません。私も親父やおふくろに言われたことには、反発するだけでした。それから親というのは、生産活動に忙しい。稼いでこなければいけない、ということで、ゆっくり時間をかけて、地方のクセ、すなわち文化を子供に伝える暇がありません。この役割を親に求めるのが無理なのであります。それでは、それをどこへ求めるかというと、従来は全部学校に求めていたわけであります。しかし、学校だって、そんなことを教えてはくれません。大事な地方の文化というのは、私は極論すれば、おじいさん、おばあさんから孫に伝えるしかないと思います。おじいさん、おばあさんが少し緩やかなリズムで、孫に伝える。昔はこれを、「門前の小僧、習わぬ経を読む。」と言いました。いいことですね。教えるともなく教える。親は強圧的になりますから、どうしても教えこもうとする。学校の先生というのは、丁寧に丁寧に教え過ぎる。ですから、怒らず、教え過ぎず、自然な形でこれを伝えようとすると、どうしてもおじいさん、おばあさんから孫へという伝承の形態が、再現されなければいけない、復活されなければ、見直されなければいけないと思います。
 そうは言っても、もちろん1家庭だけでは無理でありましょう。それを、1つの地域社会全体で考える。自分の家のおじいさん、おばあさんに頼るのが無理としても、隣の家のおじいさん、おばあさん、あるいは親戚(せき)のおじいさん、おばあさんであれば十分頼れる。それからまた、素直に耳も傾けられるわけです。こういうことを言うと、若い人は「古臭いことを言って。」と嫌います。しかし、年をとれば黙っていても嫌われるのです。ですから、どうせ嫌われるのなら、言いたいだけ言えばいい。
 ということで、私は、皆さん方に、ことわざを大事に伝えていっていただきたいと思います。ちょうど時間でありますから、これでおさめます。ありがとうございました。