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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇「愛馬会」との出会い

 「お供馬の走り込み」というのは、御覧になった方もいらっしゃると思いますが、正装した馬に15歳までの着飾った子供が乗り、「ホイヤー、ホイヤー。」という掛け声をかけながら、約300mの参道を一気に駆け抜けるものです。これは京都の加茂別雷(かもわけいかづち)神社での葵祭りの流れをくみ、約500年の伝統を有する勇壮な行事です。明治、大正のころには100頭を越える馬が参加しており、走り込みのあとは、正装した馬たちや神輿(みこし)が菊間町を練り歩く「御旅(おたび)」という行事も行われていました。当時は、馬を祭り以外にも、田をすいたり、代かきをしたりする農耕用として使ったり、また菊間瓦を作る時の燃料用に伐採した木を運ぶ、木出しに使ったりもしていました。
 しかし、昭和30年代以降、農業の機械化が進み、瓦焼きの燃料も重油に変わってきました。そのため馬を使用することが少なくなり、馬の飼育頭数は一気に減ってしまいました。このような事情で、菊間町内で馬が2、3頭くらいしかいなくなった時もあると聞いております。この時期には、愛馬会初代会長のつてで、高知競馬や、西条・新居浜の乗馬クラブなどから馬を借り、祭りに走らせていたようです。
 お供馬の走り込みを中止した残念な年(1976年〔昭和51年〕)もありました。借りて来た馬の走り込みの練習中に、事故で人が亡くなったためでした。その年は農作物も不作で、台風災害も起きました。このことをきっかけに、「お供馬の走り込みは神の祭りであり、伝統を途切れさせてはいけない。自分たちで馬を飼い、自分たちの手で調教し、事故のないよう伝統を守っていこう。」という声が、一段と強くなりました。
 町も、馬を購入する資金の無利子貸付の制度を導入し、町を挙げて行事の建て直しが行われました。私が愛馬会に入ったというより、入らされたのも、ちょうどそのころです。
 1980年6月。田植えが終わり、ホッとしていた時に、現在の会長さんに、「高知に馬を見に行くついでに、高知競馬に行かないか。」という甘い誘いについのってしまいました、そしてその挙げ句が、「高知に馬を見に来たからには、祭りに出す馬を飼えよ。飼わんと連れて帰らんぞ。」などと脅かされ、その時、フッと鬼のように怒った嫁の顔が頭にちらつきながらも、恐る恐る飼うことを承諾したことを思い出します。私の家も、嫁の家も、昔は馬を飼っていたことがあり、まあ特に血を見るようなもめ事はなく、すんなり馬を飼うことになりました。
 馬を飼うとなると、話は早いもので、どうせなら北海道の馬がいいということで、わざわざ北海道まで馬を買いつけに行きました。1頭30万円も出せば買えるだろうと思っていたところ、あまりにも高い馬の相場に驚いたことがあります。菊間祭りのために平均50万円で16頭を買って帰りました。
 こうして、当時世話役をしていた人の熱心で強引な誘いに誘われ、愛馬会の仲間になった人たちが、現在もずっと馬を飼い、菊間祭りを支えています。今思うと、やっぱり元々馬好きだったか、馬を飼い始めてそのとりこになり、やめられなくなってしまった人たちばかりで、世話人は本当にうまいこと仲間を選んだものだとつくづく感心しております。しかし、馬を飼っていても仕事で使うわけではありません。単にペットとしては、大き過ぎるし、また、そんなにきれいなものでもありません。現在は、菊間祭りのためだけに飼っているようなものです。それでは次に、1年間を通じて、どんなふうに世話をしているかを、お話してみたいと思います。