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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇戦後の伊予万歳と保存伝承

 戦前は、各地域に必ず青年団があり、ちゃんとした組織が作られていました。そして、お祭りの余興の行事は、青年団の仕事としてちゃんと役割が決められていました。ですから万歳はずっと青年団がつないでいたわけです。北条市では、春と秋の夜は、必ずどこかでお祭りがありますが、お祭りがあれば必ず万歳をやっているというのが、この風早万歳の素晴らしいところでした。もっとも、そのころは楽しみというと、万歳しかなかったということも言えますが。才蔵の上手な人は、衣装を持って、お祭りを追いかけ、才蔵をあちこちで踊ったものです。
 ところが、戦後は青年団が少なくなり、北条でも各校区にやっと一つできるかできないかくらいになりました。万歳も、戦争中から戦後、1950年(昭和25年)くらいまでは全くありませんでした。25年ころに、やっと二つくらいの会が誕生し始めましたが、昭和30年代になりますと、これが双葉会一つになりました。
 ちょうどこのころ、愛媛県では、こういう民俗芸能の掘り起こしをしようということで、民謡コンクール大会を始めていました。1955年(昭和30年)が2回目だったのですが、その大会で優勝をしたことが一つの励みになりました。その後、NHKへの出演や全国大会、あるいは伊勢神宮の奉納などの行事への参加も増えて、会員の大きな励みになったわけです。そのころに、関東の愛媛県人会からも呼んでいただき、万歳を披露しましたが、これがかなり大きな評判になり、昔やっていた万歳の愛好者たちにも刺激になったようでした。
 昭和40年代になりますと、下難波のアヤメ会も復活をし、大阪の万国博などの出演も決定するというようなことで、一気にムードが高まり、市も力を入れてくれて、双葉会とアヤメ会の二つが、市の無形文化財に指定されることになりました。これが一つは大きな引金になり、このころから、女性や子供の踊り子が入ってくるようになるわけです。
 1974年(昭和49年)には、市の指導もあって、8団体が生まれ、連合の保存会が誕生します。こうして、50年代に戦後の万歳の全盛期を迎えるわけで、毎年1回ずつ、会員全員による万歳の競演大会も開催され、これが、北条市の万歳にとって、一つの大きな柱になりました。こうして、北条と言えば万歳、万歳と言えば北条と言われるようになったわけですが、60年代になると、残念ながら若い人たちが少なくなり、会が五つに減ります。平成5年にはさらに二つの会が休みまして、今は三つの会が残っているというさびしい状態です。
 子供たちが少なくなる、青年も少なくなるということで、20代から30代、40代半ばぐらいの中間がいないわけです。その結果、今は、子供と50歳以上、そして、子供から手が離れた婦人たちが中心をなしているというような状態になっています。
 子供たちは「アヤメ会」でやっているのですが、とても残念なことに、中学になるとやめるのです。進学がある、クラブ活動がある、いろいろな行事が増えてくるということで。これも仕方がないかとも思いますが、やはり小学校、中学校で子供たちになじんでもらうと、高校や大学でやらなくても、将来また、関心を持って会員になるというような要素も出てきますので、できれば小学校、中学校で、ぜひ、お願いしたいと思うわけです。全国の万歳サミットが1992年(平成4年)と1994年に愛知県でありました。こういうものに参加しますと、万歳の良さが外から見えるようになりますし、万歳のすごさを痛感します。また、海外へ行きますと、外国人には、あの衣装と扇がなんとも言えない、素晴らしいものにうつるそうで、すごい人気を博しました。
 こういう場を、一つでも多く作って、先輩の残してくれた、この風早万歳の素晴らしい芸を、次代に伝えていく責任が私たちにはあるのではないかと思い、今、私は、その伝承と後継者づくりに力を入れております。