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わがふるさとと愛媛学Ⅳ ~平成8年度 愛媛学セミナー集録~

◇私と横浜学

加藤
 次に、私が横浜学を始めたきっかけについて、お話します。
 私自身の研究は、もともと東洋史、もう少し詳しく言うと、アジアの近代史ですから、ペリーの来航の問題も、アヘン戦争などアジア史との関連、そして、中国・インド・イギリスを結ぶ「アジア三角貿易」(茶・アヘン・綿布)の延長線上で気になり始めたものです。5港の開港などをいろいろ調べていくうちに、横浜というのは、全国的にも、また、世界史的にも大切な場所だということがわかってきました。これが、私自身のきっかけです。私にとっては、東洋史の延長線上に、横浜学があったと言えるのではないかと思います。
 現在、私は大学(横浜市立大学)で「横浜学事始」という授業を1つ持っています。これは、1、2年生を対象にした講義で、週1回、90分授業です。
 私の大学は横浜市外からの学生が圧倒的に多いので(だいたい4分の3)、せっかく4年間学んでいるこの横浜という場が、一体どういう特徴を持っているのかということをちゃんと学んで欲しいということで、この授業は、1985年(昭和60年)から始めたものです。ところがこの横浜学というのは、対象が広い。横浜という地域を限定すれば、あとは、港、貿易、建築、あるいは歴史、文学、映画、あるいは中華街の形成など、その対象は多様で、ほとんど無限と言ってもいいほどです。そうなると、私一人でできるものではとてもありませんので、年間で20数回の授業のうち、半分近くを学外から専門家の先生を講師にお呼びしてやっています。
 このようなことをやっているうちに、これは大学の中だけではもったいないということになりました。これが横浜学連絡会議というものを考えついたきっかけです。つまり、市民運動として何かできないかと考えたわけです。ちょうど1989年(平成元年)に横浜博覧会が開催されたものですから、それに的を絞って、“Yokohama Past and Present”(「横浜 いま/むかし」)など、幾つかの本を作ったり、そのほかいろいろなことをする延長で、この横浜学連絡会議というのを組織しようじゃないかということになりました。市内には、「横浜学を考える会」や「横浜『家具』を考える会」など、10人程度から中には100人をこえるような会員を持つ団体が、数え上げると、恐らく20か30ぐらいあると思うのですが、それらの団体が、横浜学連絡会議の構成メンバーになりました。こうした団体の多くは、今も、なるべく自分で調べたことを、素人(しろうと)、玄人(くろうと)の関係なしに月に1回発表を続けるなど、地道な活動をしています。
 そういう団体と、横浜市という行政と、それから企業、この三者が一体となって、1990年(平成2年)に横浜学連絡会議ができました。企業も、今、だいたい20社に協賛してもらっていますが、企業文化を自ら自覚しないと、地域で存立できなくなってきている時代ですから、それを自覚している企業は、そう多くはありませんが、よく協力してくれています。たとえば、社員研修に横浜学の話を組み込んでもらい、こちらから誰かその筋の講師を派遣するなどということをやってきて、もうすでに6年か7年になると思います。
 この横浜学連絡会議の活動は大きく言って三つあります。
 一つは、年1回のシンポジウムです。これには各地の「地域学」「村おこし」「文化団体」からも参加があります。
 第二が横浜学セミナー。セミナーではだいたい5、60人の会を、年に何回かのクルーで開催し、かなり細かい、言い替えれば、個人の関心の高い、すごく具体的にして、かつ興味ある話題を、それぞれのプロに話していただくというようなことをしています。たとえば、「横浜名物シュウマイ物語」では、シュウマイの崎陽軒の社長自らに、お話をお願いしました。
 三つ目は、それを印刷物として出しているということです。シンポジウムの記録は必ず1冊。セミナーは1回分の三つか四つの講演が1冊ですから、年に3~4冊。それと「横浜学だより」という季刊の新聞を作っています。
 1990年に開いた第1回シンポジウムでは「地域学交流集会」を行いました。このときは、当方でわかっている全国各地の地域学に御案内を差し上げました。来年(1997年)か再来年の秋に、もう一回やってみたいという声が出て来ております。おそらく数は、発足の時から比べると、4、5倍にはなっているでしょうか。そういう方々がお互いに寄り集まると、お互い比べることができるのですね。町が大きいか、小さいかということではなく、自分の町がどんなものなのだろう、全国の、あるいは世界の町と比べてみて、どんなところが違うのか、あるいは、自分の町の売り出すべき特色は何かということが、わかってくるのではないかと思うのです。
 ここまで、私は横浜のサイドからお話をしましたが、昨日と今日、松山と北条を御案内いただいて、横浜にないもので気がついたことがいくつかあります。そのうちの一つは、中世の風景が風早地区、つまり北条市には、ものすごくよく残っているということです。また、松山市には、当然のことながら近世の城下町のすごくいい面の典型があるなという印象を受けました。それらは横浜にはありません。近世の城下町を持っておりませんし、中世のお城の遺跡も少ないところです。それが一つの印象です。
 それからもう一つの印象は、やはり海です。横浜も港で、それは共通点でもあるのですが、なんと言っても瀬戸内のほうが、現状ではまだまだ美しいし、単純に物流だけに限定した海の使い方をしていません。漁業もありますし、何か人工的な景観を設計をしようとする場合にも、海とそれを連続させようとしているという気配りが、こちらでは感じられました。
 横浜市は海を埋め立てて、工場地帯を造ってきましたので、だいたい180kmある海岸線のうち95%以上は、工場などの私有地で囲いこまれているのです。それで一般市民や観光客がいきなり接近できる海岸は、わずか5kmしかありません。180km分の5kmしかないわけです。それではこれからはダメではないかということで、今、いろいろな取組みを始めております。そうした横浜に比べますと、海岸線がこれだけ残っていて、スッと接近できるということ、これは決定的に大きな財産だと思います。それを再認識するということも、風早を考える一つの方法だというふうに思います。