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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇各地に埋もれている民家

 写真4は、三間(みま)町(北宇和郡)の太宰家(だざいけ)です。「大内の庄屋」と言われるものなんですけれども、そこへ行く登り道のあたりには、何の家もなく、村から離れて、ポツンと山を背にして建っているのです。ここには、芝不器男(しばふきお)という俳人が、養子に来たというような、人物の歴史も面白い家です。建築の面だけで言いますと、長屋門(ながやもん)の入母屋(いりもや)の隠居(いんきょ)所は、ずっと後になって増築したもので、江戸時代は、平屋根がずっと続いていました。
 写真5は、土間(どま)が入った所の梁組(はりぐみ)です。比較的、愛媛県の民家にしては洗練されていると思います。吉田町に法華津屋(ほけつや)という商家が復元されたのですが、むやみやたらに太い材を使って、五重にも梁をかけております。飛騨高山(ひだたかやま)の大工が作った梁組は、必要最低限の太さで屋根を支えておりますので、非常に緊張感があるんですが、この建物(太宰家)の技術というのも、かなり緊張感があると言いますか、あまり大きな物をこれ見よがしに使っていないということが感じられるんです。
 普通は台所は改善しているんですけれども、太宰家の台所はほとんど昔のままです。前に上がると落座(おちざ)という、女中や下男衆が、ここで腰掛けて食事して、そしてその向こうに板の間があって、もう1段高くなって畳の部屋があるんです。ちゃぶ台が置いてある所に長男、そして姑さん、そして嫁さんは一番端の所。そして御主人はずっと一番上の部屋で高膳で食事をした。そういう昔のくらしぶりを残す、非常に珍しい例です。昔のままに台所まで残っているというのは、ちょっとめったにありません。
 写真6は、同じく三間町にあります毛利家(もうりけ)で、「是能(これよし)の庄屋屋敷」と言われています。この家の貴重なところは、長屋門(ながやもん)、それから主屋(しゅおく)、蔵などの庄屋屋敷の全体が、非常に保存良く残っていることです。持主の毛利さんが、町の方へ「家屋敷を寄付する」と申し出られていますが、その後、話は具体化はしていないようでこれが地方の民家を取り巻く現実です。今、「守る会」ができ、なんとかこれを残そうとしています。この三間町に、だれかお客さんが来て、この屋敷の中に座らせて話をすれば、それだけで三間町の文化というか、そういうものがわかるのではないかと私は思います。
 写真7は、毛利家の主屋です。建物は角屋座敷(つのやざしき)と言いまして、直角に座敷部分が飛び出しているのですが、宇和島藩は、宝暦4年(1754年)に鍵家無用(かぎやむよう)、つまり、百姓は鍵の手に曲がった家は建ててはならない、という御触(おふ)れを出している。どうもこれは、後に増築した部分のようです。鍵家の例は、豊島家と、三間町の毛利家の2例があります。家相図(かそうず)などが残っている例はありますけれども、現実に残っているものとしては、非常に珍しいものです。棟は瓦を葺いてますが、これは全部に瓦を葺きますと、武士の階級に対する反抗ととられる。身分の違いを表すために一部だけ使わせてもらって、あとは茅(かや)葺き。箱棟(はこむね)という、南予地方の棟の特徴であります。
 写真8は、川内町の松木家です。これは先ほどの豊島家と同じく、主屋の屋根に茅葺きを乗せて、そして下屋に本瓦葺きを使う四方ぶたの特徴をとります。老夫婦が営々とこの家を保存しています。いくら民家が良いと言っても、保存されている力というのは、ほとんど個人の力です。
 松木家の座敷(写真9)は非常に珍しいもので、床の間の横は普通違い棚なんですけれども、ここは1間(けん)分全部が開口部になって、そこから庭が見えるという設計になっているんです。そして床の間と違い棚の境に、三日月模様に彫られたものがあって、このようにして内と外がつながっているのです。内と外がつながっているという建物は、日本特有のものです。これが西洋にいきますと、内と外は厚い壁で遮断される。それが人間に影響を与えて生活スタイルが変わってくるわけです。
 障子(しょうじ)を閉じます。障子というのは、非常に日本的なものです。物理的には紙一枚ですが、閉じますとその中を侵さない。しかし中にいながら、外の四季の移ろいとか、様子がわかるという、非常に精神性の高い間仕切(まじき)りです。アメリカなどの建築雑誌が、障子の良さを見直そうと取り上げてきている。逆に日本の生活の中からは、障子がだんだん消えていっている。そういう逆の動きがあるんです。