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わがふるさとと愛媛学Ⅲ ~平成7年度 愛媛学セミナー集録~

◇浜のくらし-浜の一年

 次に、わたしたち漁村のくらしにとってどうしても切り離せない湊神社のお祭りを中心にして、お話してみたいと思います。
 1月は、船の神様に飾り餅をあげます。昭和40年(1965年)ぐらいまでは、1月10日の恵美須神社祭「十日えびす」まで、絶対に船出をしなかったのです。そして、正月の3日間だけは、絶対に女の人は台所へ立たないし、火も使わないということで、わたしたちの生活の中で休める時間がございました。しかし、生活が電化されていく中で、今の人は楽になり、このような習慣は失われてきています。
 2月は節分。「豆まきのあとは、絶対に女の人は外へ出られない。福は内、鬼は外の豆まきが終わるまでに家へは必ず帰るように。」という習わしを教えられてきました。家の角々の十字路には、夜が明けると、厄落しの豆とお金の包みが置いてあったことを覚えていますし、子供にもそんな思いを教えたこともあります。
 3月はお彼岸。漁村の皆さんは本当に御先祖様を大事にします。氏神様、仏様を信じれば良いという伝えは、私も両親から教えられました。
 4月は雛節句。これは今はもうなくなりましたが、4月2日、1か月遅れの雛節句には、皆さんも御存じのように、今はお菓子屋さんにだけしか残っていないような、あん羊羹(ようかん)、練り羊羹。食べ物の不自由をしてきたころですので、そんなごちそうの時には、朝から晩まで、私が嫁いだ時には朝の6時から夜の5時ぐらいまで、釜を炊いておりました。
 そして、巻き寿司を3日に巻き、4日にはそれをお弁当に詰めて、花見に行きます。お花見と言いましても、今は桜の下へ行きますが、浜や船の上(そのころは堤防の上まで船を引き上げておりました。)でお弁当を広げて食べるという習慣がありました。子供は何回もお弁当を詰めに帰っては、遊んでおりました。
 5月は子供の日と春祭り。今は子供の日ですが、昔は、春祭りというのがありまして、「たたきこみ」という、漁師にとって大漁祈願、海上安全のお祭りをしていましたし、みこしもかかれていました。しかし、後継者の不足とともに、だんだんとみこしも出なくなってきました。そんな中で、昭和35年(1960年)ころ、「子供たちに楽しいことをさせてやろうじゃないか。」ということで、わたしたちの子供が、ちょうど4歳から10歳になったころ、愛護班を主体に、湊町地区に8体の手作りみこしができました。職人が作った以上のいいみこしで、この時点で、「また、たたきこみを考え直そう。」という漁協組合長さんの計らいにより、漁船パレードが始まり、ずっと現在まで続けられております。
 ところが、だんだんと子供が減り、最近は子供みこしも2台がかけるのがやっとです。そこで、「子供みこしを寝かせておくのはもったいない。」ということで、今は、商店街の皆さんたちの五色姫祭りの中で、日の目を見させていただいております。
 6月は男節句。6月5日の男節句には、必ず柏餅を作ってお祝いをします。
 7月の夏祭りは、湊神社を中心に、広場で人形芝居などが開かれていましたが、このお祭りも、今は寂しいものになっております。
 8月の盆。月遅れの盆踊りは、15、16日。老若男女、本当に夜を徹して朝まで踊りつがれておりましたが、これもまた、後継者のない、寂しい時期を迎えています。
 10月は秋祭り。愛護班の子供のおみこしが出る程度で、なんとかいい方法はないかなと考えております。そんな中で、愛護班の方たち、また、地区の区長さんたちの努力で、なんとか盛り上げようというような形になっております。
 12月はお正月の用意。お正月には、わたしたちの神様をお祭りするということで、いまだにお餅つきは欠かせない行事となっております。
 以上のような形で、伝統のある行事やふるさとの味などを、わたしたち漁協婦人部の活動の中で、若い人につないでいこうという努力を重ねているところです。
 後継者不足、高齢化時代が進んできましたが、幸せにも、今現在、わたしたちは、後継者に恵まれているほうだと思っております。大事なわたしたちの後継者に、本当の資産であり、生活の場でもあるきれいな海を引き継がせたいと考えております。
 わたしたちが住んできた湊町や漁村を守って行くためには今後も地道な活動を繰り広げていかなければならないと思います。さらに、皆様方の御協力がなければ、わたしたちだけでは、明るい漁村づくり、町づくりも海を守ることもできませんので、この場をお借りして皆様方の御協力をお願いいたしまして、わたしの発表を終わらせていただきます。
 ありがとうございました。