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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

1 肱川流域の庶民のくらし

(1)墨絵の風景

 私は昭和13年に松前町から大洲に嫁いできた。まず驚いたことは朝々深い霧の中からチリンチリンと鈴の音が聞こえてきた。それは高山から、牛の背に炭俵などの荷物をつけて、下りて町に向かう牛の鈴で、狭い山道を互いに譲りあうための合図の音であるということであった。しっとりとたちこめる霧の中を行く飼主と牛の姿は、まさに一幅の墨絵のような風景であった。

(2)生活体験からの格言

 格言というほどの堅苦しいものではないけれども、明治生まれの人の体験談は、聴くほどに思わず襟を正さずはおれなかった。淡々とこともなげな話にも、体験を積んだ裏付けと説得力があった。例をあげると、筏(いかだ)師に筏流しのコツをたずねたら、「瀬ありや沼ありですらい。人間(にんげ)もついですらい。」と言った。この人のいう人間とは、人生のことを指していのだと感じた。
 農家の人は、「百姓には百のショウがある。百のことができなければ、一人前とはいえない。」ということであった。肱川流域のむらは、田畑に恵まれた平地もあれば、山を背に前面は、川原という日照時間に恵まれず遠方に出作りしなければならない農地のない集落もあり、牛馬や木馬(きんま)、ねこ車までの運搬に頼らなければならない山間集落もある。肱川左岸の岩黒集落などは、新谷、五郎方面に出作りして、収穫物は舟で運び川原で干し、夜はにわかづくりの小屋に入れ、番をするため泊りに行くという不便さであった。
 だから流域のお百姓さんは、木の伐採、くず家(萱やわらぶき)の屋根替え、大工左官、石積みなど、何でもこなせる能力を持たなければならないことを、百という数字で表したのではなかろうか。それらのどの仕事での、少しの手抜きも許されない。老人たちは「百姓仕事は、習うより慣れろ。」と言った。つまり体験を積んで体得せよということである。
 また川魚を副業としている人は、「魚の命をもらうのじゃから、こちらも命がけじゃ。」と言う。時には川原で料って(料理して)食べることもあるが、水際で血をみた魚はおびえたように四散する。魚をとる者は「そのものに血をみせるな。」という鉄則があるという。
 流域の住民が恐れているのは肱川の氾濫で、治山治水の言葉には「山を荒らすと里が荒れる。」といい、戦時中までは昔からの語り継ぎをかたく守ってきたのである。

(3)大洲の「おしん」

 現在90歳くらいの女性の話には、「おしん物語」そっくりの話が多い。家が貧しくて小学校へ行かせてもらえず、子守奉公に出された。食事時もおんぶしている子供を下してもらえず、食物が満足に食べられない。これを「茶碗ふたぎ」とか「腹ふたぎ」と言う。一種の節米対策であったとも言う。
 このような苦労をした人は多く、勉強したくてもできなかった人、赤ん坊をおんぶしたまま一日おきに登校した人、8歳になってやっと足が機(はた)に届くようになると白木綿を織った人もいる。
 昔の嫁の条件は、よく気がつく娘、よく働く娘で、苦労した女性は10代で嫁入りし、7、8人の子供を生み、産婆も頼まず座産で生み、へその緒も自分で切り、産湯も自分でつかわせたという。きつい姑にしんぼうしたFさんは、田の草採りをする時、一反(10a)の草採りを終えるまで腰を伸ばすなといわれ、今は老人用の車にすがって歩いている。
 下の歌詞は春賀の子守唄で、かつてはこの老人たちの愛唱歌であった。

   春賀の子守歌

   ねんねんや ぼろろんや ぼうやはよい子じゃ ねんねしな
   ねんねんねる子は大好きよ 起きて泣く子はつらにくい
   ねんねんや ぼろろんや
   起きたらがんこちが とってかむぞ 泣き虫たれは 親さんからよ
   親がだいじにするからよ 奉公しようとも 守奉公おしな 親ににらまれ
   子にせめられて 人にゃらくなよに 思われる ねんねんや ぼろろんや
   つらのにくい子を まな板にのせて お葉を切るように シャギシャギシャギと
   お葉を切るにも 切りよがござる 一生この子が まめなよに 一生この子が
   まめなよに