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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

3 桜井漆器の移り変わりについて

 桜井漆器は、重箱の四隅の接着部分を櫛(くし)歯形に組み合わせる独特の櫛指(くしざし)法を開発するなど、いい物を作って一世を風靡(ふうび)した。しかし、時代が進むにつれて、いい接着剤ができるともっと簡単に製造できるようになり、また、昭和20年代後半にはプラスチックができて、その業界に非常に苦しめられた。よその産地は、攻勢をすることを知っていたが、桜井の人は営業活動で攻勢に出ることをしなかったので、プラスチック業界に手を出すこともなく、従来の木製漆器に終始した。
 桜井漆器は行商販売の延長であり、販売側の考え方は、訪問販売で、同じ1時間の労働力でお椀を売るならば、いいお椀を売った方がいい。1万円の物よりも10万円のお椀を売った方がいいということから、昔の椀船屋さんで九州にいる椀屋さんが、その後必然的に、桜井漆器から輪島の商品にどんどん切り換えていった。
 そして桜井は、業者が少なかったから、仕事があったから、ついつい輪島ほどいいものを作る勉強をしなかった。悲しいかな、そのせいで九州でも追い越され、大正時代には150軒の製造者があった桜井の業界も、今は10軒足らずに衰退した。お互い競争心がなかったことが大きな理由の一つはではないかと思う。