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わがふるさとと愛媛学   ~平成5年度 愛媛学セミナー集録~

5 太鼓祭を体験した京都の学生たちの印象

佐藤
 年齢別にしていくことが連続することによって、次の世代へ、次の世代へと、また次の人がその役割をやっていくということですね。
 ところで、昨年、同志社の大学生がこちらのお祭りを調査に来られて、レポートを残されたりしたそうですが。昨年のお祭りというと、初めて京都から来て、ぜんぜんこちらを知らないままに、昨年のあのにぎやかな祭りを見たということになりますね。

松本
 はい。私たちの大学の学生が8人、昨年こちらの方へごやっかいになりました。川西地区には8台の太鼓台がありますので、教育委員会の方に御援助願いながら、そして自治会の役員の方に御援助願いながら、腕章を付けさせていただいて、祭りに入りました。それぞれの太鼓台に3日間くっついて、太鼓台から感じとったものを自由に書き表してほしいというような課題で、お願いしました。
 そうですねえ、皆さんのレポートを紹介させていただくことは時間の関係でできませんので、その一部分を、御紹介させていただきます。
 まず、A君のレポートですが、その一文にはこんなことが書いてありました。

 そうこうしているうちに、昭和通りに太鼓台が集まってきた。夕刻5時から地区内の自由運行を終えた川西地区の8台の太鼓台が顔見せをするのだ。僕は、N町地区の太鼓台の人々に世話になる予定であったが、昼間は会えなかった。前から近付いてきたのが、N町太鼓台だった。ぼくはその黒ずくめの服に、N町と黄金色でぬかれた文字があるのを見て、どきどきした。そして、何をしたかというと、目を合わせないように通り過ぎたのである。夕方で暗くなってきた町に、その黒ずくめの集団は、観衆があたかもいないかのような面持ちで前進していった。N町太鼓台は、川西地区の中で最も伝統のある太鼓台の一つなのだが、その伝統のある太鼓台のかき夫が黒い服を着て黄金の抜き文字とは、たしかに新居浜の太鼓台には金糸銀糸が使われているし、竜を表すくくり、黒色と村のカラーを2色に使われている。しかし、あまりにも戦闘集団的な色だ。僕は今日、最高のにぎわいを呈している商店街を抜け出し、うどん屋に入って、少し胃の痛くなったところへ、うどんをかき込んだのである。明日から大変だと思いつつ、なんとかN町太鼓台の人たちに対面できたのは、夜になってからである。町衆の集まっている木造平屋の土間には、所狭しと無数の地下(じか)足袋が無造作に履き捨てられている。頭を上げ、僕が目を向けると、4、50名の男たちが、熱気を挙げているところだ。僕は挨拶をした。戦闘的な男たちの視線を跳ね返すほどのセリフをしゃべることができるか。「私は、京都の同志社大学から祭りの研究で新居浜にやってきました。で、N町太鼓台に付いて回ることになったので、御迷惑ですが、よろしくお願いします。」という口上を読んだ。「名前は?」、早くもやじや冷やかしが飛んだ。「ああ、知っとる知っとる。ケーブルテレビで出てたわ。」「それで」「まあ、飲みゃあ。」、僕はこの世で2番目に好きなビールをプラスチックコップに一杯もらって続けた。「Sと申します。新居浜は初めてですので…」、言葉に窮した。「それから」「研究ってどんな研究をするんぞ。」「テレビは女も出ていたけどウチは男か、女連れで来い。」などと気勢を上げる男衆も目の前にいて、これは、一筋縄ではいかないと痛感した。「で、研究というのは。」「『太鼓台が今もなお、どうしてさかんなのか。』とか、『若者の参加が低いはずなのに、どうやって持ちこたえているのか。』とか、『参加する若者は、参加しないでいる同じ町内の若者に対してどういう気持ちなのか。』とか、『年とった人と若い人との間はうまくいっているのか。』とか、とか、とにかく新居浜太鼓台の全貌を明らかにするという…。」「松山の出身で…。」「松山のどこぞ」「それで、もっとしゃべらんか」「まあ座って飲めや。」「おい、どこに泊っとるんぞ。」…。僕は、脈絡のない男たちの言葉に、思わず安心感を抱いた。もし、ここで何かしゃべらされても、4、50人の男たちがシーンとしていたら、それこそ歓迎されない侵入者は空を見上げて涙しなければならない。
 彼ら一人一人が、僕に一対一で対峙(たいじ)してくれるのが、とても嬉しかった。もちろん僕はだれの質問、意見に答えるか、その選択で悩むのだが、「僕は、N町太鼓台にあたってとても幸運だったんです。この地区で最も伝統のあるところはN町で、それに町内の人口も最も多いらしいし、今見ても、みんなやる気に満ち満ちているみたいだし、とにかく、今、相当、困っていますのでよろしくお願いします。」という口上を述べた。3杯めのビールをもらって、飲んだり、しゃべったりしているうちに、僕はこう締めくくることができた。「部屋中歓迎の拍手をしてくれて、N町に来て本当によかったと思っとる。」その席では、みな、ビールで、日本酒を飲んで騒いでいた。長い机の列が三列あって、左端は運営委員会の人たち、中央はOB会、右端は青年団と分かれて座っていた。夕方見た、黒いジャージのかき夫が青年団、OB会はクリーム色のジャージ、運営委員はまた別の色と、ジャージごとに分かれている。もちろん運営委員はかつぐことが禁じられている。気付いたときには、僕は、ホテルではなく、Y家の家にいた。くつろいでビールなどを飲み、そのうちにいた。

 B君の感想には、こんな事柄の一文があります。

 土地の人の、祭りや自分の所の太鼓台への思い入れは意外なほどに強い。でも、異様に感じた。太鼓台が練り歩きだすと、老若男女が次から次へと続いてくる。そして、かき比べがあるような所では、人という人が、地を埋め尽くす。あれほど閑散としていた町から、よくもこれほどと思うほどである。この新居浜の結束の強さは、裏返して見れば、田舎によくある、江戸時代の5人組的な閉鎖性ともとれるわけで、わたしはそこにわずかながらの嫌さを感じた。それともうひとつ腑(ふ)に落ちないのは、最終日の大げんかである。3日間N太鼓台についていったが、それらしい雰囲気は全くなかった。自治会長さんはのんびりと「けんかをやるかもしれんね。」と言っていたが、私はそうは思えなかった。工場前でも、中須賀の浜でも、けんかをするときの、N太鼓台には殺気など何一つ感じなかった。みなの顔はまだ笑っていたし、動きもそれほど生き生きしたものではなかった。それが、あっという間に一変して、商店街のガラスが割れるほどの大乱闘である。これがいわゆる群集心理というものなのか。それにしても、何か彼らをそこまでの大げんかにかり立てるのか。それとも、祭りだからこそ、こうなるのか。いったい祭りとは何なのか。残念ながらよくわからない。

 それから、一人の女性の最後の感想があります。

 新居浜に取材に行ったというより、祭りとけんかを見て、ごちそうの旅になりました。私は、祇園祭や時代行列などおちごさんがいて、大人が世話役になる形態の祭りしか見たことがなかったので、迫力に圧倒されどおしでした。大人が自ら大騒ぎする太鼓台、伝統を継承するだけでなく、これからも血を沸かして、台をかついでほしいけれど、観光名物にしようとする、二つの兼ね合いでは、形ばかりのかき比べ、こぜりあいサービスも多く、興ざめの部分がなきにしもあらずです。それだけに、最終日、ハイライトの宮入りを見ようと一宮神社に集まる人々を尻目に、宮入りを放棄して、けんかを決定した町があったことも、頼もしく感じました。「ここ十何年前から本気でけんかしてなかったから、そろそろしないと収まらない。」、こういうNさんの言葉どおり、いま、町民の情熱が押し寄せたのかも知れません。それとも、不景気な時には、けんかが激しくなるのでしょうか。また、太鼓台をとおして、違う世代の人々と出会い、教わり、交流する姿が、私には新鮮でした。それに、文中でも再三触れましたが、おばあちゃんと孫の組合せはなく、おじいちゃんと男の子の組合せが目立った中にも、祭りに対するかかわり方が象徴されているように思います。男の子は、子供のころから勇壮な台になじんで、いずれ実際にかつぐようになり、女の子は、祭り自体はあまり見物しないで、家で煮物の準備を手伝う。でもこれからは、特に女の子の習慣が変化してくるでしょうね。どうもありがとうございました。

 本当にかいつまんで全体を紹介できませんでしたけれども、皆さんの御好意に感謝して、こういうような一文を読ませていただきました。