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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)石垣が生まれた背景

 ア 半島の「青石」と石垣

 宇和海沿岸の村々の、「耕して天に至る」と言われる段々畑の石垣や、西海町外泊の石垣集落は、全国的な知名度も高い、本県の重要な文化遺産である。その中で、佐田岬半島の種々の石垣も、外泊のそれにひけをとらない規模と特色を持っている。自然(特に防風)や農業面での関わりは他の項でいくぶん触れているので、ここでは石垣職人の人々の生活史から、その技術や生活全般との関わりを中心に記述する。
 佐田岬半島では、俗に言う「青石(あおいし)」で、ほとんどの石垣や波止(はと)が作られている。「青石」とは緑泥結晶片岩(りょくでいけっしょうへんがん)(緑色片岩)のことであるが、半島の地質の大部分は、古生代の三波川(さんばがわ)変成岩帯に属する緑色片岩と黒色片岩で構成されている。
 「青石」は、庭石にすれば高価なものともなるが、佐田岬半島の人々にとっては、生活の中でありふれた存在だったのである。また、結晶片岩は片理(へんり)面のため平行に剥(は)げやすく、そのためこの地域は地すべりの多発地帯となっているが、一方で四角形の岩石が身近に大量に存在し、面を削ってそろえる必要性が少ないため、石垣を作るうえで好都合でもあった。
 半島は沈水した山脈の稜線部分が頭を出している形で、沖積平野がほとんどなく、20~30度の急傾斜地帯が面積の大部分を占めており、さらに、海洋に大きく半島が突き出す形となっているため、風速20~40mにもなる冬期の季節風、夏季の台風等を受けることが多い。そのため、家屋・農地とも、その築造や防風等の面で、石垣は生活上欠かすことのできないものとなっていた。特に三崎町において、防風・防潮面の配慮から石垣が発達しており、正野地区の集落を囲む防潮石垣、大佐田・井野浦の船蔵・納屋を囲む石垣、名取地区の家屋基礎部分や道路の石垣は、特にみごとである(口絵及び写真4-2-6、4-2-7参照)(②)。また各集落の港の波止も、過去に築造されたものは、ほとんど青石からできている。これらは、専門の土木業者・石積み職人によるものも多いが、大部分は、地域住民が自らの手で、大変な労力と歳月をかけてつくりあげてきたのである。その意味からも、これらの石文化は、地域の大切な財産として、もっと高い評価を受け、地域資源として活用されてしかるべきものであろう。

 イ 石垣作りの歴史と伝統

 宇和海沿岸の段々畑は、江戸時代から発達してきたとされる。これは、宇和島・吉田藩の政策もあるが、技術面から見ると、戦国時代に生み出された高度な築城技術(特に石垣作り)の民間伝播による、全国的な新田開発・河川改修等の土木工事の発達ときりはなして考えることはできない。石垣築造の新技術が、段々畑の造成を可能にし、それによる人口増加の圧力が、さらに段々畑の拡大を促したとも言える。
 石を取り扱う専門職人としての石工(いしく)(石屋(いしや)とも言う)は、石山から石を切り出す「石採(と)り工」と、加工して墓石や燈篭(とうろう)を作る「石彫り工」、そして石垣を築造する「石積み工」の三通りの種別に分けることができる。穴太(あのう)(現滋賀県大津市)の石垣職人は、織田信長の命を受けて安土城築城に携わったことを契機に、江戸時代には城郭等石垣作りにおいて全国的に権威を持っていた(③)。しかし、それ以前から、また江戸時代以降においても、石工をもっとも多く出したのは瀬戸内海沿岸部であり、これらの人々は職人集団として全国をめぐり歩いていた。県内でも伯方島等越智郡島しょ部の石工(石採り工)は、全国に進出し「伊予の石屋」と呼ばれた(岩手県下閉伊郡山田町には、伯方島の石屋出身と伝える家が3軒ある。(④))。
 佐田岬半島周辺では、石材採掘は行われていない。また「石積み工」に関しても聞き取りの範囲ではそのような他県からの流れの専門職人の存在は判明せず、各集落単位の土着の土木業者や一般住民の手により石垣が築かれていったようである。しかし、この地域では「石積み工」(石垣職人)のことを「エバさん」と呼ぶが、石垣築造に関しては、広島県の江波(現広島市)出身の職人が優れた技術を持って全国各地に進出し、九州等では石積み工のことを「エバモノ」と呼ぶ(③⑤)との記事があることから考え、過去には県外(広島または九州)から来た専門職人による、技術伝播があったと考えられる。

写真4-2-6 三崎町正野の防潮石垣

写真4-2-6 三崎町正野の防潮石垣

平成4年11月撮影

写真4-2-7 三崎町井之浦の船蔵前石垣

写真4-2-7 三崎町井之浦の船蔵前石垣

平成4年11月撮影