データベース『えひめの記憶』
宇和海と生活文化(平成4年度)
(6)南予の地域文化のシンボル二宮敬作
ア 「宇和文化の里」に生きる二宮敬作
昭和48年(1973年)6月、宇和町は開明学校とその周辺を中心として、愛媛県から上浮穴郡美川村の「岩陰文化の里」、越智郡宮窪町の「能島(のしま)水軍の里」とともに「宇和文化の里」に選定された。「宇和文化の里」を代表するものは、旧開明学校(県指定史跡)・高野長英の隠れ家(県指定史跡)・二宮敬作住居跡(町指定文化財)・二宮敬作の墓(光教寺境内)・鳥居門・御成(おなり)門(町指定文化財)・申義堂(しんぎどう)(儒学者左氏珠山(さししゅざん)の私塾、明治2年〔1869年〕建築)(町指定文化財)・宇和町歴史民俗資料館・民具館・薬草園(敬作ゆかりの薬草120種を栽培)、さらに江戸時代(41棟)から明治時代(18棟)・大正時代(17棟)の建物が軒を連ねる中町の伝統的な町並み等の貴重な歴史遺産の数々である。宇和町教育委員会が作製した「宇和町かるた」は、宇和町の香り高い文化の里を親しみやすく歌っている。
(け)「敬作の 偉業をしのぶ 薬草園」
(ち)「長英も イネも歩いた 中町」
(に)「西日本 最古を誇る 開明校」(写真4-1-21参照)
(も)「諸人(もろびと)の 心を文化の 里がひく」
宇和町では毎年8月上旬「宇和文化の里まつり」を開き、町民挙げて各種の文化行事、レクリエーション行事、特産品販売などの催しを通して地域の生活文化の活性化を図っている。
平成6年度には宇和町に愛媛県歴史文化博物館が開設されるが、宇和文化の里はじめ南予地方における数々の文化遺産とともに愛媛県の歴史文化のメッカと生涯学習の拠点として大いに期待されている。
作家の司馬遼太郎氏は、二宮敬作はじめ高野長英・村田蔵六・イネなど幕末の歴史に光彩を放つ人々を作品の中で温かく描いているが、紀行文「街道を行く 十四」において卯之町を訪れた時の印象を次のように述べている。
「徳川封建制のふしぎさは、山間僻地にまで学問への刺激がおよんでいたことで、こういう奇妙さは19世紀以前のアジアにはなかった。たとえばこの卯之町に、江戸末期の代表的洋学者二宮敬作が、中央での栄達も考えず、町医としてくらしていたことも、江戸期のふしぎさの一つにかぞえていいかもしれない。『二宮尊徳あるを知って、二宮敬作あるを知らず』といったのは、文久3年(1863年)うまれの地理学者志賀重昂(~1927年)である。(⑫)」
宇和町の歴史文化に詳しい**さんや**さんも異口同音に語る。
「卯之町の代々の人々に語り継がれてきた二宮敬作先生は、だれに対してもきわめて懇切丁寧な手当をし、夜中でも急病といえば山中まで行き、しかも薬代や謝礼などはほとんど念頭になく患者の治療費など金銭的な書付けは一生持たなかったといわれます。本当に地域に生きた篤実そのものの医者の姿であったということです。また、卯之町の青年たちに開国進取の進歩的なものの考え方を熱心に説いたといわれ、単なる医者でなく地域の人々を啓発した優れた啓蒙思想家であったということです。敬作先生が切り開いた道程は、その後左氏珠山の申義堂や開明学校に引き継がれ、今日も宇和町文化の里に生き続けて地域の人々の心を大きく支えています。」
イ 国際化時代の二宮敬作~今日も磯崎の丘より歌声が………
また、保内町の歴史文化に詳しい**さん(愛媛県文化財保護指導員)(八幡浜市日土町 昭和2年生まれ 65歳)も二宮敬作について同様の姿を語り、さらに続けて「今日、国際理解や国際交流が盛んになされていますが、二宮敬作は、あの鎖国時代において伊予灘の一小村より長崎に遊学し、シーボルトに師事して蘭方医の名医になるのですから大したものです。しかも庶民的な医者として地域に生き、地域のために徹した敬作先生こそ今日の国際化時代にふさわしい歴史的人物といえましょう。敬作先生のことを地元はもとより愛媛県の人たちにもっともっと知ってほしいと願っています」と述べている。
今日もまた「愛の人 ああ 愛の人 敬作先生 わがふるさとの誇りです 偉業をたたえ学びます」と磯崎の子供たちの明るい歌声が伊予灘に響き渡っている。伊予灘から三崎半島を経て西瀬戸内海に広がる宇和海と南予地方の生活文化は、世界の海と各地の生活文化につながっている。伊予灘を見はるかす磯崎の丘に建つ二宮敬作像は、21世紀の国際化時代に向かう子供たちをやさしいまなざしで見守っている(写真4-1-22参照)。