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宇和海と生活文化(平成4年度)

(2)厳しい北風

 ウワテの集落のひとつ志津には、「風碆(かざはや)」という伝承がある(④)。
 
 風碆(かざはや)(志津)……抜粋
 志津の大波止のすぐ沖に直径3mほどの岩が、二つ仲よく並んでいる。
 この岩のことを地区の人たちは夫婦(みょうと)岩とか、風碆(かざはや)とか呼んでいる。二つの岩が仲むつまじく並び潮の満ちた時など海面下にうっすらと浮かぶさまは世をしのび、ひっそりと過ごしている老夫婦のようである。潮のひいた時にこの岩の上に立つと老夫婦の怒りの故か突如として激しい風雨におそわれることがあると伝えられている。そのためか、現在でも地元の人々はこの岩の上には立たないようにしているそうだ。さらに、この岩の上に立つと突風が吹くところから風碆と呼ぶようになったとも伝えられている。いずれにしても大波止を建設する時に波止の位置を今少し沖に建設すると船の出入りには大変便利だったのだそうだが、この岩があるため現在位置に建設したのだそうだ(写真3-2-8参照)。岩を破壊することで後々起こってくる暴風雨の襲来を恐れてのためだろうか、それとも海中の自然保護に重点を注いだのか……さらには仲むつまじく水中に生き続ける老夫婦の長寿を祈る地元民の方々のやさしいいたわりの気持ちからであろうか?……満潮時に海面下にうっすらと浮かんで見える老夫婦岩が眼の前に手に取るようだ。

 直接冬の季節風を示すものではないが、当地の人々の言い伝えの中に強風に対する恐れが感じられる。ウワテの生活は、冬の間厳しい北風に悩まされ続けてきた。関門海峡を通り抜けてきた大陸からの季節風が、北西から直撃する。気温差に加えてこの風の影響もあり、「シタテと比べると着物1~2枚は余分に着る」というほど、体に感じる寒さが厳しい。
 風に対する生活の知恵について尋ねた。「最近の家は丈夫になりましたから、どこもそう変わりませんが、昔の家は風を避けるために低く建てていました。2階建ての場合、最近のものと比べて、2mくらいは低いですかねえ。」ということだ。西海町のような防風石垣について聞いてみると、「防風のための石垣というのはありません。住居の周りの防風垣は、集落によって違います。集落全部というわけではなく、とくに風の強いところで見られるのですが、志津では、丸っこい葉のイソシバで人の背丈ほどの生垣を作っていました。これに対して、大江や小島では、冬の間だけ背丈の1.5~2倍くらいの垣を組み立てました。材料は、スギの丸太、竹、そしてこのあたりでトキワと呼んでいるカヤを使います。スギの丸太を高さ2~3m、1間(約1m80cm)間隔に立て、その両側を挾むように竹を水平に渡します。竹の間にトキワを立てていき締め付けていきます。春になって風が収まると、組み立ててあった垣をばらし次の冬までしまっておくのです。家が丈夫になったし、半島の北側斜面に位置するウワテでは、風だけでなく光をもさえぎるうっとうしい存在であったこともあり、どちらも最近はほとんど見られなくなりましたがねえ。」とのことである。
 「子供のころのことを思い出しますと、屋根の上には石を置いてあったと思います。」と、**さんは語ってくれたが、これもまた最近では見られなくなったという。
 『イソシバ』と『トキワ』は、どちらもこの地方特有の呼び方だと思われるので、実物を探し求めて、現地の集落を歩いて見た。耕地を囲むスギ等の防風垣は若干見られたが、**さんの話のとおり、どこも住居のまわりはスッキリしていた。志津の集落では『イソシバ(別名マメシバ)』の生垣を見つけることができず、その種類の確認もできなかった。また、『トキワ』の防風垣については、やはり大江、小島ともに「そう言えば、昔はそんなことをしよったなあ。」と、なつかしそうに語ってくれるお年寄りには多数出会ったが、垣そのものは見られなかった。瀬戸町内にはトキワススキ(イネ科)が多く見られ、おそらくこれを利用していたものと思われる。
 小島を訪れた際、テーラーに乗って農作業を終えてミカン畑から帰る途中の**さん(大正7年生まれ 74歳)、**さん(大正5年生まれ 76歳)ご夫婦に、偶然話を聞くことができた。**さんは、シタテの川之浜の出身で、結婚して小島に住むようになったそうで、町の文化財審議委員を引き受けておられる。かつて小島で見られたという防風垣について聞いたところ、「私の家の周りでは、見たことありません。」との答えであった。風が強いはずなのにと不思議に思って詳しく尋ねると、**さんの家はすぐ北側に「宮の森」と呼ばれるスダジイ、タブノキ、ホルトノキなどの大木が密生した森(町指定文化財)があり、天然の防風林としての役割を果たしているからであった(写真3-2-9参照)。
 風を含めて厳しい生活環境の中で、集落の人々が受け継いできた生活の知恵について、**さんは「このあたりの生活は、以前はあまり豊かではなかったんです。地滑りも多いし、土地も狭いし、とても厳しい生活でした。そんなこともあってか、地域の皆が助け合おうという連帯意識がとても強いんです。
 『コーロク』と言って、近所に何かがあると、自分の仕事を放ってでもその家にかけつけ、力を出し合って協力する、いい習慣があります。例えば家を建てるときなども、土地の造成から皆が出て、労力奉仕をするものです。もちろん、報酬はありません。」と、テーラーの座席に座り、沈みゆく夕日にほおを赤く染めた笑顔で語ってくれた。
 自然がもたらす厳しい生活に対する知恵は、防風垣などのハード面のみならず、こうした人々の心のつながりに見られるソフト面にも及んでいることが分かった。

写真3-2-8 志津漁港

写真3-2-8 志津漁港

平成4年8月撮影

写真3-2-9 「宮の森」

写真3-2-9 「宮の森」

平成5年1月撮影