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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)典型的なウワテの暮らし

 瀬戸町大江出身の**さん(大正5年生まれ 76歳)に、大江、志津、小島を中心にウワテの暮らしについて聞いた。**さんは、イモの製粉業を営んでいた家の三男として生まれた。大江の生家は川のすぐ横にあり、大きな水車を利用して粉を引いていたという。昭和5年(1930年)に大阪へ菓子製造見習いに出たあと各地を転々とし、昭和14年に海軍に記録こう員として入隊、香港で捕虜になった後、戦後三机に戻って役場に奉職した経歴の持ち主である。現在は三机在住で老人クラブ会長として、また、町の生き字引きとして、元気に毎日を過ごしている。
 大江、志津、小島は、入江に面して形成された、ウワテに典型的な半農半漁の集落である。ささやかな水系を頼って耕地が広がり、住居は、農耕に都合がいいように耕地の近くに散在している。シタテに比べ、海岸から離れた高い位置に住居があるのは、浜が狭く斜面が急なせいでもある。          
 「岬半島の人文地理(③)」によると、町内の他の集落に比べて耕地面積が広い。「瀬戸町内で稲作が行われていたのはこのあたりだけ(シタテには皆無)なんです。最後まで米を供出していた大江も、昭和30年ころ潮をかぶってからは米ができなくなり、自分の家で食べるほどの米を作るのは別にして、本格的な米作りは見られなくなりました。」
 住居の周辺には、この地域独特の青石を使った石垣が目立つ(写真3-2-7参照)。
 「石垣を組んであるのは、宅地造成のためなんですよ。浜が広がるシタテと違って、こちら側には穀物類のひのら(干し場)がありませんから。段畑では広いスペースが取れません。今でこそ柑橘が多くなりましたが、もともとはイモ、麦、雑穀などの食糧生産農業がおもでしたから、生活していくためには穀物類の干し場がどうしても必要だったんです。家屋敷と言っても、それは住むためではなく干すための場だったんです。」と、**さんが語ってくれた。雑穀だけで生計が成り立つとは思えない。
 薪が燃料の中心だったころ、枯れ枝やたき付け用のマツの落ち葉などを取りに近くの山へ入ったそうだ。たいていの人は自分で山を持っていたが、どこの山に入っても怒られるわけではなく、集落に近いところから徐々に取っていたという。かまどの燃料はマツ、ウバメガシ、クヌギなどの雑木であった。「クヌギも早く燃えていい薪になりました。ウワテでは、この地に多いバベ(ウバメガシ)の炭焼きもあったんですよ。」と、教えてくれた。山を持たない三机の人たち(後述のとおり、独特の商家町の集落)だけは、割木を買っていたという。それらは、木が豊富であった大江、志津、小島から伝馬船で運ばれたもので、雑木すらもまた、貴重な生活の糧であった。
 生計の主は農業で、「朝は明星、夜は夜星をいだいて帰る」という重労働の毎日であった。それでもなお苦しい生活を支えるため、冬場は杜氏として酒造元へ出稼ぎに出た人もいたという。段畑での農作業のかたわら、夕方になると、湾に入って来るイワシを捕るため、各家から一人が「おおごし(網子)」として海岸に下りてきて網を引いた。捕れたイワシは網元と網子が6:4(後に5:5)で分け、網子は高台にある自分の家でそれぞれが干してイリコにし、再び網元のところに集められて出荷していた。従って個人差があり、製品の質にバラツキがあった。網元は各集落に一人はいたそうだが、その後の不漁でイワシ網もすたれてしまった。
 半農半漁の名残りの漁について、**さんは手帳を取り出しながら次のように語ってくれた。「ここ3年ほど、毎月の万歩計の記録をつけていますが、毎年4月から7月にかけては伸んでないでしょう。この時期は、アジやイサギを捕りに沖へ出ているんですよ。最近は、遊漁船として釣り客を乗せる人もぼつぼついるようです。」と言いながら、瀬戸町の地図を広げ、志津と足成の沖にある好漁場を数か所指し示した。そして、「数km離れているだけですが、それぞれの漁場の雰囲気はずいぶん違うんですよ。ここはなごやかで楽しく釣れますが、こっちの方は荒々しいですねえ。」と、各集落の間で気質の違いが見られることを示唆してくれた。

写真3-2-7  住居と石垣(志津)

写真3-2-7  住居と石垣(志津)

平成4年8月撮影