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宇和海と生活文化(平成4年度)

3 繊維産業の伝統を受け継いで

 南予全域(特に西宇和郡一帯)は、かつて繊維工業が地域を支えていた。酒六(八幡浜)・敷島紡績(三瓶)・東洋紡績(保内、川之石)等の織物・紡績会社が大規模に操業を続け、また農村工業的な形で各地に製糸工場が存在した。これらの工場は、女性にとって当時数少ない職場として、また農家にとって生糸=桑を通じての貴重な現金収入をもたらし、地域経済の核となっていたのである。しかし、戦後の産業構造の変化により、その栄光は過去の物となり、前記の3工場も、もはや休業している。この南予の繊維産業の盛衰については、今後の研究が待たれるところでもあるが、本書の第4章でもいくぶん触れているためここでは詳細を省き、現在、南予で唯一大規模に繊維産業(縫製業)を営む「四国ソーイング株式会社」の経営の変遷を通して、宇和海の繊維産業の伝統の一端をかいま見ることとしたい。
 **さん(八幡浜市五反田 大正12年生まれ 69歳)四国ソーイング株式会社会長

 ア 会社経営の変遷-統制からアメリカ輸出そして技術集約産業へ

 (ア)戦前の会社設立の経緯

 「現在会社のあるこの五反田は明治の頃から、五反田縞として織物生産の中心で、その製品は合田(旧神山村、現八幡浜市)等の行商人の手により、九州等全国各地へ売りさばかれてました。酒六工場については、言うまでもありません。このような隆盛の中で、わたしの父は、『八幡浜織物協同組合』(昭和恐慌後の生産過剰を防止するため、政府の指導により設置され生産・販売の統制を行う機関)の共同染工所の工場長として、織物工程の前後の染晒(そめさらし)及び染加工を担当してました。
 昭和14年(1939年)にこの染工所の一部門として縫製部を設置したのが、当社の始まりです。正式な創業は、昭和17年(1942年)に『南予布帛(ふはく)工業所』として、父が代表取締役となった時です。当時の資本金10万円は、父と酒六さん、及び八幡浜の代表的卸し問屋の明地(あけち)商店がそれぞれ持ち、生地は酒六さんのBC反(直接生地としては売れない半端品)を縫製して製品とし、明地商店を通じて大阪・中四国に販売するようにしてました。戦争が激化し衣料統制となってからは、主に軍需品を広島被服廠(ひふくしょう)の管轄下に製造してました。」

 (イ)対米輸出による発展(高度成長期)

 「終戦後の昭和23年に、ミシン250台の登録で卸し会社を認めるということになり、『南予被服産業』を設立して販売も自分たちで行うようになりました。また、24年には国の許可により、特殊機械としてシンガーミシンを入れたのですが、この際にシンガーのアメリカ人技師が来て、流れ作業工程にしろという指示の下で、県の産業能率研究所に依頼して、工程の時間測定等をして改善して見ると、生産量が大幅に増えたことは、忘れられない思い出です。それまでは、一人が全部丸縫いしておりましたんです。この後、逐次統制が解除になって自由販売ができるようになり、わたしどもは主に九州方面の地方問屋に売ってました。
 昭和28~29年の『なべ底不況』で、九州方面の問屋さんが次々倒産し手形が不渡りになり、生産と販売がアンバランスで非常に困っておりました。この時(29年)に、アメリカ向けの1ドルブラウスの輸出が始まり、大阪の商社を通じて製造に参入することができ、本当に助かりました。この場合賃加工として価格が一定なので、生産性を上げさえすればもうかるということで、順調に会社を発展させることができたんです。ただ国内の得意先だけは残しておきたいということで、『南予被服』は商取引中心であったものを製造に切り換え、国内専門にしたんです。昭和41年に、宇和町にパーマネントプレス工場を設立しました。これは樹脂で高圧高熱加工をして、折り目を消えないようにするもので、こうしないとアメリカ向けでは売れないんです。しかし、昭和47年のドルショックで、輸出がまったく不振となり、再び内地転換をしなければどうしようもないことになってきました。」

 (ウ)技術集約型産業へ(安定成長期)

 「しかし、内地転換をすると言っても、販路が無い、情報収集・商品開発能力も無い、特に輸出物に比べて技術面で細かい工夫や仕上げを要求されるということで、当初は大変苦労しました。とにかく、もう一度基本に返って勉強し直そうということで、社内に職業訓練校を設けたんです。初めは幹部の人に2年単位で時間外に研修してもらいました。職種柄、どうしても主婦の人が多く、家事との兼ねあわせに苦労されたろうと思うのですが、家庭にも協力をお願いすると、快く承諾していただきました。そのおかげもあって、1級技能士、2級技能士に大部分の人が合格し、製品についても4~5年たつと評判が良くなり、経営が安定して参りました。今は、県認定四国ソーイング共同高等職業訓練校としてビルを建設し、『ファッションスクール』の名称で2年間3,200時間の授業を行い、200名を越す技能士が育っています。本当に人は力、技術は力だということを、実感しています。現在の従業員数は関連会社も含めて約1,200名です。」

 イ 企業としての現状と今後

 (ア)八幡浜は「田舎」か

 「交通の不便さにも関わらず、わたしどもの会社も含め、南予で過去に繊維産業が隆盛を極めることができた一つの原因として、優秀な労働力があったし、今もあるからです。人情的にも純朴で本当に皆さんまじめです。今は、この業界でも多品種少量短サイクル化の時代で、とにかく人=技術が一番重要です。その点では、本当に恵まれている部分があります。ネックであった輸送関係も、最近のように1日行程でほとんど全国各地に着くようになってから、時間差等の面でも何ら問題はありません。情報に遅れを取らないためにということで、昭和35年に大阪、昭和48年に東京に出張所を開設し、営業活動とともに、情報収集に努めています。また東京・大阪の2社とオンラインを結び、受注関係を処理しています。ですから、このような交通・情報網の発達は、(一部の業界を除けば)むしろ都会と地方の格差を埋めることを、可能にしているんじゃないでしょうか。」

 (イ)国際化に対応して

 「酒六さんが休業したのも、(素材産業のため)結局は東南アジア等の発展途上国との競争に勝てなかったからだと思います。とにかく、先進国の技術と、発展途上国の安価な製品に対抗できる競争力の両方を見据えて、海外諸国ではできないものを製造していかねば、これからは生き残れないでしょう。また、昭和47年から4年間、シンガポールの東洋紡績・三菱商事の合弁会社に、技術指導で社員を派遣したことがあり、旧ソ連のアルメニア・グルジアやサイパンにも社員を派遣しました。やはり、海外での体験は非常に社員の視野を広くしますし、設備関係でも先進国の技術を取り入れる必要から、当社では交替で海外社員研修を実施しています。また、現在ODAの一環として、中国からの研修生が20名働いてもらっています。このような国のみでなく企業としての積極的なお互いの交流は、プラス面も大きいですし、これからも進めていきたいと思っています。」

 八幡浜市は、一昨年の平成3年には、二宮忠八翁飛行百年記念事業を、青年会議所の主管で見事成功させ、地域おこしの起爆剤とした。また、平成4年には、地方の生活基盤を充実させ地方分権を図る上での、国の「地方拠点都市」の一次指定を受けることとなった。大都市への流出による人口減少、主要産業である柑橘栽培の低迷等、種々の問題はあるものの、いまだ明治からのバイタリティは健在であることを、今回の調査でも実感した。今後の八幡浜のますますの発展が期待されるところである。

写真2-3‐6 四国ソーイング(中国人研修生の人たち)

写真2-3‐6 四国ソーイング(中国人研修生の人たち)

平成4年12月撮影