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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)とる漁業からつくる漁業へ-養殖に生きる-

 **さん(三瓶町下泊 昭和22年生まれ 45歳)
 **さん(三瓶町下泊 昭和27年生まれ 40歳)
 三瓶湾での養殖は、昭和30年(1955年)に香川県の蔭間(かげま)漁業が、翌31年に三重県の御木本真珠が進出してきて真珠養殖を開始した。昭和35年から地元漁民による真珠母貝養殖が始まり、昭和42年(1967年)から地元業者による真珠養殖も開始された。しかしながら、養豚によるし尿たれ流しで湾内が汚染され、母貝養殖も真珠養殖も湾内から姿を消した。真珠養殖・母貝養殖に変わって、ハマチ養殖が発達してくる(昭和36年に開始)。とくに昭和46年(1971年)より沿岸漁業改善事業として3か年計画で下泊の高島に消波堤をつくり40haの養殖漁場をつくった(写真1-3-9参照)(⑯)。
 図表1-3-11からも分かるように、三瓶の漁業の経営体数377のうち、養殖業は50経営体で全体の13.26%であるが、生産額では全体の46.72%をしめ、三瓶の養殖業は生産性の高い業種であることが分かる。
 下泊の高島水産の**さんから養殖経営について話を聞いた。**さんは「三瓶高校から広島の大学に進学した。昭和41年(1966年)に父親が養殖をはじめ、ハマチを広島に出荷していた。広島の魚市場とのつき合いがあり、魚市場に下宿して5年間広島にいて帰郷した。わたしの親父は漁協の職員であった。三瓶に真珠養殖が入ってきたとき、父は魚類養殖に関心をもち、共同経営という形でハマチ養殖を始めた。会社組織にしたのはわたしが帰郷する前年の昭和44年(1969年)からである。養殖が無かったら私も三瓶には帰って来なかったろうと思う。結婚は昭和47年(1972年)で、子どもは一人で現在大学生である。今のところ後を継ぐ意志はないようだ。養殖には休みがない。魚は口を持っている。台風もある。自然に左右される。息子は親の経営もじっと見ているのじゃなかろうか。」
 **さんは「農家の生れで22歳で結婚した。現在高校2年と1年の娘と中学1年の長男の3人の子どもがいる。家庭の主婦であると共に主人を助けて養殖にも従事している。養殖はアジ、フグであったがヒラメが入ってきて、海と陸で行うようになった。養殖を始めてから最近感じることは、魚が病気になったり、酸素不足で魚が死んだりすることが多くなった。海の中がどんなになっているんだろうかと思うこともある。今年も台風あがりで酸素不足でヒラメが死んだ。水温の上昇で成長した魚が死んだ。フグは2年かけて800gに成長させて出荷するのだが、昨年は300gから500gまで成長したフグが死んだ。それだけ海が汚れているんだろうか。」と主人を助ける**さんは気をもんでいる。陸上施設でのヒラメ養殖について**さんは、「水槽での飼育ですから成長の様子が毎日観察できます。水槽ですから消毒もしやすい。夏場は20日でタンクの中を掃除する。掃除中に大きい魚だとカプッとかみつかれることもある。年中忙しいけれども、ほっとするのは冬場である。水温が低くなり魚も餌をたべなくなるし、タンクも汚れないから仕事の量も少なくなる。養殖に従事するのはわたしのところは、主人と姉夫婦、主人の弟と甥とわたしで父親も手伝っている。同族でやっているので忙しいときも無理を聞いてもらえるのは有難い。」と一家の主婦として懸命にご主人を支えている姿に頭がさがる。
 3年前に父親から経営を引き継いだ**さんの高島漁業では、今も養殖する魚の6割がハマチである。三瓶における養殖魚種の動向について**さんは、「昭和52・3年までは養殖の中心はハマチであった。三瓶にカン水養殖導入された当時は、ハマチがもうかるということで、湾内津々浦々に養殖がおこってくる。景気が良いと都会に出ていた若者も帰ってくる。家が新築されるは車が買えるはということで経営体が増えてきた。その結果はハマチの生産過剰となって値くずれをおこす。採算がとれなくなるということで、ここ4・5年にいろんな魚類が養殖されるようになった。ハマチ以外ではマダイ・アジ・イシダイ・イシガキダイ・スズキ・マハダ・フグがあり、最近になってヒラメが導入された。湾内全体からいえば、まだハマチの割合が多いが、ヒラメ養殖の比重が高くなりつつある。ハマチ専門、タイ専門という経営方式から、ハマチ、タイ、ヒラメを組み合わせた複合経営に移行しつつある。
 ヒラメの養殖は従来の海での養殖と異なり、陸上施設で養殖ができることである。三瓶では現在90%が陸上施設で、10%は海でヒラメが養殖されている。陸上施設では海水をポンプアップして水槽に入れ、海水を再び海に返す循環方式である。炎天下の真夏に海上での作業は本当に重労働であるが、陸上施設での養殖が盛んになれば、カン水養殖に比べて管理面では有利であり、若者の職場としても有望であると思う。
 三瓶の海は海の力というか環境の良さがあった。今も見た目にはきれいだが、10年、20年前の養殖に比べて魚自身も弱くなっている。海の力が段々と落ちてきている。経営規模拡大の時代は終わった。これからは漁場を休ませるということも経営の中で考えていく必要がある。そういう意味で陸上での養殖は三瓶湾の将来の養殖の方向を示唆しているかも知れない。」
 三瓶湾漁協内で平成2年ころより30歳代の若い養殖経営者から、種苗の安定供給と種苗代の軽減をはかり養殖経営を安定させようという声が起こってきた。それを受けて漁協では、沿岸漁業構造改善事業の資金を運用し、建設費1億2千万円(国5割、町1割、組合4割負担)で、湾内養殖業者が出資して第3セクター方式による三瓶種苗センターを設立した。
 平成4年4月から当初はタイ・ヒラメ・トラフグの種苗生産が稼動して、11月から稚魚出荷が始まった。
 後継者のことや将来の見通し、**さんの養殖にかける夢について、「わたしより若い経営者がかなりおって、後継者について今のところ心配ということはない。しかしながら、休みは少ない。労働はきつい。給料が安いでは、後継者や労働力確保は難しくなることは目にみえている。
 これからは働く環境をよくすること。そのためにはヒラメ養殖のように、カン水養殖から陸上化していくこと。陸上化は台風や赤潮などの自然災害を最小限度におさえることができる。これはわたしの夢ですが、個人の業者が別々に経営するのではなく、大同団結して、例えば海上石油基地のような施設をつくる。そこで労住一体の生活ができる。コンピューターを駆使して自動制御された養殖、実験着を着て従事できるような養殖、基地内にボートやヨットが係留され余暇を楽しめるような養殖にしたいものだ。
 わたしのやっている仕事は、日本人のタン白源としての魚を、それも健康な魚を消費者に供給する。大げさないい方ですが、自分のやっていることは、世の中のためになる仕事をしているんだという気持ちを持っている。」と意欲をしめされた。

写真1-3-9 三瓶町下泊の 養殖場

写真1-3-9 三瓶町下泊の 養殖場

下泊港と高島の間に築堤してハマチ、タイ、フグの養殖が行われている。平成4年9月撮影

写真1-3-10 三瓶種苗センターでのヒラメの稚魚選別

写真1-3-10 三瓶種苗センターでのヒラメの稚魚選別

三瓶町有綱代。平成5年1月撮影

図表1-3-11 平成3年組合地域別結果表

図表1-3-11 平成3年組合地域別結果表

三瓶湾漁業共同組合資料より作成。