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宇和海と生活文化(平成4年度)

(1)海藻を育てる海域

 **さん(三崎町串 昭和8年生まれ 59歳)は170cmの立派な体格で、うっすらとひげを生やしているが色白の好男子である。ちょっと漁師さんに見えない風貌で笑みを絶やさないが、時々愁いを帯びるのはどうやら休漁のせいだ。伸ばした左脚は大きなギブスで包まれている。船で踏みはずしたらしい。
 「ちょうどえびが解禁になった大事な時にな。一月(ひとつき)は仕方がないなあ。」とこちらの話に応じてくれるのは嬉しいが少々気の毒でもある。

 ア 30m行きゃせんかな

 「海藻ちゅうと、昔はクロメを採りよった。コンブに似たやつで、味そ汁に入れてな。昔は大きいのがあった」という。愛媛の自然(⑧)にクロメのことが書かれていたのを思い出し、宇和島の大内三郎さんが佐田岬のクロメ80cmを記録しているというと、「80cmや1mは珍しないな。黄金碆の方へ行ったら1mは珍しない。」と重ねていわれる。「不景気な時分は、採って食用にしょったんじゃろな。しょう油つけて食べてもええ。1回食べたらやめられんな。」と笑う。
 民宿で出されたクロメは、「岬の納豆」と呼べるほど粘りけがあって、しょう油味でおいしかった。年寄りには少し固いかも知れないが風味がよい。民宿では年中使えるように保存している。
 「九州では今でも(クロメが)店に出とるな。巻いたの1本が100円か150円じゃったと思う」といわれるから、保存用のクロメは乾燥しておくのであろう。
 「クロメは量は多いがテングサがええ。テングサとワカメじゃなあ、女の人も採りよる。ノリ(フノリ)いうてテングサに似たのがあるが、アサクサノリは少ない。昔は済州島の方から毎年入ってテングサを採りよった。」という。
 串の海士については漁業の中で詳しく述べられるので、昭和35年当時のデータから、採海藻による水揚げについてのみ取り上げておきたい。この水揚げグラフでは海士漁業(アワビ、サザエ)と海藻類(テングサ・ヒジキ・ワカメ・アラメなど)が別項目になって分かりやすい。かつて、三崎で330人(昭和23年)を数えた海士たちはアワビ・サザエ等の採貝と採海藻に励み、ハマチ一本釣りとともに三崎の漁業をささえた。
 串の**さんは26歳、べべ**の**さんが36歳の年に当たる。**さんはただ走るのが早いだけでなく泳ぎも得意で、21歳で独身になってからは海女(あま)もやったといっていたから、テングサの値がよいこの時分には潜(す)んでいたことであろう。
 **さんは「6月1日から8月31日までは繁殖期で禁止されていたが、潜んだこともありますらい。海士(あまし)の人は30mくらい行きやせんかな、(網を岩に引っかけた時)1m70cmの25ヒロもぐってもろたけんな。10キロぐらいのオモリもってな。上がる時は命綱を引っぱってな」と長身の両腕を広げてみせる。計算上は40mをこえる。底が見えるのか明るさが気になって尋ねると、「明るさ無いかも知れんな……暑い時は気持ちがええが、(本人は)慣れんけん、生活するほどにならなんだけん。」やめたのだという。

 イ 黄金碆(おうごんばえ)

 佐田岬半島は南北両岸とも山脚が海に迫って急傾斜の崖が多く、海岸線に沿って碆と称する海底露岩があちこちに見受けられる。岬端の佐田岬灯台から豊予海峡を望むと眼下に黄金碆が見える。旗竿を立てたように見えるのは無人のアセチレン灯だという。しけと急流で何回か遭難があった場所でもある。
 黄金碆は結晶片岩に含まれる硫化銅が輝くために名付けられた名前であるが、急流で洗われる岩肌には海藻がつき易く生長も早い。前記クロメなど大型海藻が群生して小魚の格好の生息場所となり、ブリなど大型魚を呼ぶために漁場としても有名である。
 このほか馬ノ碆(うまのはや)、童子碆(どうじばや)、雀碆(すずめばや)等数えると10に近い。いずれもが岬の鼻(*9)近くにあらわれており、魚介類(*10)の宝庫といってよい。
 **さんの漁場は上場(うわば)(伊予灘側)の半田から灯台を回って下場(したば)(宇和海側)の小梶谷鼻(おかじやばな)までの範囲である。
 「黄金碆は一本釣も建網も一番ええとこやけんな。船は潮によって1か所に固まって(ひとかたまりになって)な。今はイサギじゃが、イサギも1匹や3匹じゃないけん。はりを大分つけとるけんな。1本のタテヅリいうてな、ハリを50本・60本もつけるけんな。延縄(はえなわ)よりも多い」というから「それは重くて上がらんでしょ?」というと「全部が一遍に引っぱるんじゃないけんなあ。」と笑われる。
 「いま(9月16日)イサギ、ハマチが釣れるようにいよりましたなあ。5・6kgあるのが釣れよったなあ。」と、けがで出漁できないもどかしさを抑えておられる。
 「建網を入れるのは潮によって時刻はきまる」までは話されるが、それから前へはなかなか進まない。それも当然のことで、自分の得意な漁場は親子でも教えない。生活がかかっているのである。仕方なく振り出しに戻って話を聞くことにする。
 「漁を本格的にやったのは中学校出てからじゃな。小学生の時も日曜日に手伝いで行くこともあった。父親が30歳の時亡くなって、それからは家内と2人で。2人居った方が都合がええけんな。」と今は奥さんと2人の建網漁である。子供さんは3人、上の2人は嫁いで家には息子さんがいる。消防士で務めに出ておられる。
 「船はもうあれから3ばい目になる。最初は小さいけど自然と大きくするけんな。やっぱ(やっぱり)すべて大きくせんといかんけんな」と顔を上げられた目線に船の写真がある(写真1-1-14参照)。
 「(網を)入れる場所はそれぞれ自分の場所が、得意のところがあらいな。自然と(他人に)わかるのはわかるが、その辺りが詳しならいなぁ。捕るのは、いまはイサギ、これからはタチウオ・アジ・サバ。」「タチウオは捕れる季節がきまっているのでは?」と中予地域の感覚で尋ねると「年中よ。タチウオ専門に年中やっとる人もあるけんな。アジやサバも年中(捕りに)やっぱ行きよるけんな。」と教えてくれる。群れをなして回遊するアジやサバが一年中やってくる佐田岬の漁場である。アジを追ってタチウオも当然やってくるはずである。

 ウ 佐田岬沿岸地域の潮汐と潮流

 三崎町誌(②)に潮汐と潮流を、わかりやすく次のように述べている。
 潮は満ちしお汐はひきしおという。ある地点で海面が最高になった時を満潮、最低になった時を干潮という。この満潮・干潮はくりかえされ、満潮時と次の干潮時の間隔は通常12時間25分で、毎日50分ずつおくれて現れる。このように日に2回満干がくりかえされる潮汐を半日周期という。場所によっては日周期のところもある。このような潮汐をおこす力を起潮力というが、この力は月または太陽の地球に対する相対的な位置・距離によってきまる。この力は地球や月の自転・公転によって変化するので、規則的な周期をもって変化する。とくに新月と満月のときは、太陽による潮汐(S₂潮)と月による潮汐(M₂汐)が合力しあって大潮となり、月の上弦または下弦のときは相殺(そうさい)しあって(M₂-S₂)小潮となる。
 太平洋を東から西に進むM₂潮は紀井水道より約1時間おくれて豊後水道に進入する。豊後水道に入ったM₂潮は速吸瀬戸(はやすいせと)から伊予灘に入り北と東に分かれて進む。伊予灘を沿岸に沿って東へ進む潮(上げ潮)はM₂分潮とよばれる。北進潮は周防灘(すほうなだ)から関門海峡に達するが、豊後水道から約2時間後になる。
 潮汐のためにおこされた海水の水平運動を潮流という。
 潮流は流向・流速とも時間がたつと変化し、一定時間後にまた最初の流れの状態となる。流れが静止する潮止りを憩流(けいりゅう)といい、流れが方向をかえる現象を転流という。
 普通転流は6時間12分ごとに4回あるが1日2回の場所もある。1日4回のこの地域では大潮の時流れが速い。
 潮流も潮汐と同様に周期性があり半日周期と1日周期がある。豊後水道は規則正しい半日周潮流である。速吸瀬戸から灯台を回ると流速が弱くなり環流が生じている。
 潮流の速さと潮汐の関係をみると、転流時は最高潮位・最低潮位よりそれぞれ約2時間半後である。小潮の頃は最大流速が3㌩弱、大潮の頃は5㌩(9km/時)である。一般に北流が南流より速い傾向がある。
 **さんは「潮の流れはなあ、沖に出んけんなあ。」と口を重くされたが、無理のない話である。建網を入れる場所はせいぜい水深50mの、海岸に近い場所か碆の周辺であるが、潮流の観測点はもっと沖にあるので建網を入れる場所とは潮流にかなりの差があるはずである。というよりも、それぞれ独自の体験から、変化の多い沿岸部の潮流をもっとこまかく知っておられるのである。
 「鼻によって多少のずれがあらいな。地形によって、やっぱ潮の流れは変わらいな。トロミ(満ちひきの変わり目)は向こうへ行くほど遅れる(上場(うわば)は東へ行くほど遅れる)。30分くらい遅れるかな。ひき潮は灯台まであまり差がないかな。建網はこれが大事よ。下場(したば)(宇和海側)へ来るとまた、ひきがトロンで満ちになる時刻が変わる。地形によって鼻で蔭になるけんな。1時間くらい差がでる。建網は潮を知っとかんと、網を揚げる時間が分からんけん大変じゃな。網は潮が止まった時に入れるが、入れる時は明るいけんど暗うなって揚げることもあらいな。」と丁寧に説明してくれた。
 宇田道隆氏の「海と漁の伝承(⑩)」によれば「黒潮と内海への入り潮」の中で豊後水道について次のような記述がある。
 「春の『南風(まじ)』秋冬の『西風(にし)』は漁によいが『東風(こち)』では波高く漁に悪い。外海魚は『起き直り』といって、寒明けから入り込み、活動はじめる。4・5月瀬戸内に入りこみ、夏土用明けから外海へ下る。残暑きびしいと『ヨドミ』といって魚群滞留し、漁多い。但し『土用ヨドミ』にはカツオは食わぬ。豊後水道外海に『上り山シオ』(*11)(北東流)、『下り山シオ』(北西流)で魚が接岸好漁。『上り出しシオ』(*12)(南東流)、『下り出しジオ』(南西流)もある。『日向(ひうが)寄せ』は伊予地方で日向沖からシオに乗ってカツオ大群が押し寄せ、大漁をいう。カツオノエボシの群来はこの前兆。」と。
 宇田氏は高知県出身、黒潮を追って沖縄よりはるか南方の洋上まで調査航海をし、マグロやカツオの漁港に多く立ち寄られている。いきおい黒潮の太平洋側の記事が多く、瀬戸内海とりわけ伊予灘に関するものは少ない。しかし、局地的な方言やなまりとともに、広く全域に共通すると思われるものもあって興味深い。「天象と漁」の中に記事を見る。
 「『朝マヅメ、タマヅメ』は薄明時(うすあかりどき)で日の出、日没時に近い『間詰(まづ)め』(マジメともいう)がカツオ・タイなど広く魚族の最も餌付のよい(索餌行動の盛んな)刻とされる。従って最も好漁を期待され『魚時(などき)』と呼ばれる。魚の『口を使う』摂餌時(せつじどき)、魚の活動時間帯とされる。朝夕光線が水中を斜めに射す時、チンダル現象(*13)でプランクトン(*14)や懸濁物(けんだくぶつ)(*15)が明視(めいし)され、魚眼に餌料生物がよく見えて摂餌に便利になると解せられる。」
 また、「シケ潮」については次のように述べている。
 「暴風雨前後にシオが急に速くなり、向岸流(込みシオ、山シオ、入れシオ)を生じ、沖から魚群が来遊、好漁となる。いわゆる『急潮』が起こり、沖合のシオと沿岸のシオとの潮境(沿岸前線)が動いて来て海況(流れ、水温、塩分、透明度など)が一変する。ブリとかマグロとかが群来し、定置網など大漁する。流木なども寄り集まり、魚もヨドミに溜る場所、好漁場にもなる……。」と。
 佐田岬漁港のすぐ上の小高い尾根に漁協直営の「三崎漁師物語り」という近代的な物産センターがある。三崎のうまいもん直売と添え書きしたパンフレットを見て胸を打たれる。
 「ここでは一本釣りだけを天然と呼ぶ。」とある説明に並んで「朝まじめが勝負どき」とある。宇田氏の「海と漁の伝承」が顔を出すのである。
 三崎町の夜は早く更ける。「朝まじめ」を狙って夜明け前には海に働く漁師たちの多いこの町では、日が沈んでしまうと電話さえ控えるという。
 三崎の漁師たちがよく口にする「朝まじめ」「夕まじめ」とは、夜明けと日の出、そして夕方と黄昏(たそがれ)との境目の時間帯をさす。一般的に「まずめ」と呼ばれるこの時間帯には、日中、太陽を嫌って深海に沈んでいる動物性プランクトンが、海面近くに浮遊する植物性プランクトンを求めて上がってくる。これを狙って幼魚や小魚たちが、そしてそれらを餌とする魚たちが海面近くに上がってきて活発に餌を追うようになることから、好漁の潮時になるのだ。
 正野の民宿を夜明けに抜け出した時、漁港の船は出払っていた。「今日は台風のうねりがくるんでなあ。」と所在なげに海を眺めていたおばあちゃんの、ことばの意味がその時は分からなかった。防波堤のすぐ外側では、2はいの小型船がまるでじゃれ合っているように接近して、大きく上下動をしながら地先で漁をしていた。荒れる海も「うねり」が運んでくる魚族の、ちょうど「魚時(などき)」になっていたのである。
 三崎の漁師たちは潮の宝・磯の宝を大事に扱いながら今日も佐田岬沿岸地域で、三崎漁師の一本気を発揮していることであろう。碆と潮流が育てた海の宝を求めて。


*9 海に突き出た陸地の先端部で岬の一部。
*10 魚類と貝類、水産動物の総称。
*11 京都に向かうのが「上り」、沖から沿岸へ向かうのが「山シオ」。
*12 沿岸から沖へ向かうと「出しシオ」。
*13 透明物質(海水)中に微粒子(魚のえさ)が分散している場合、投射された光線が散乱されるため、光線の通路を観察
  することができる現象。
*14 水中に浮遊している微生物(魚のえさ)。
*15 溶媒(海水)中に分散している固体のコロイド粒子(でんぶんやたんぱく質)。

写真1-1-14 喜久美丸

写真1-1-14 喜久美丸

平成4年9月撮影