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宇和海と生活文化(平成4年度)

(3)南予用水

 ア これまでの三崎町水道会計

 三崎町水道課で入手した資料の一つに月刊雑誌「水道」のコピーがある。全国簡易水道協議会の発行である。
 この雑誌に寄稿した当時(昭和51年〔1976年〕)の町水道担当者は「水道のあしあと」と題して、苦難を次のように述べている。
 「三崎町は以前の三崎村・神松名村の2村より成り立っています。また部落においても民家が分散しております関係で、水道を布設するまでは、浅井戸で汲み揚げるとか流水をせき止めて溜めて取水していた。18ℓ入りの用器で担って遠い所では2kmも運んでおりました。」と生活用水の不足と地形的な不便さを記している。さらに、この地域に致命的な水不足をもたらした二つの災害について、「昭和21年(1946年)に南海地震があり、地盤沈下で井戸が涸れた上に海水が混入したため使用不能となり、住民は生活をおびやかされるところまで来ました。そこでまず神松名村二名津地区が昭和25年、当時の区長金森高雄氏によって『非衛生的な飲料水では伝染病の発生もありうる』とのことで村当局と相談致しましたが、その当時あまり関心をもっていない水道のことで話しは進まず、金森氏は県当局に陳情いたし着工に踏み切りました。住民の負担等で反対もありましたがこれを克服して二名津簡易水道ができました。翌昭和26年三崎村三崎地区に水道組合を作って一部に水道を布設しました。続いて昭和28年・29年・30年と毎年両村に1か所ずつの簡易水道を布設いたしました。経営・維持管理は部落で行っておりましたが、昭和30年、町村合併により三崎町が誕生し、昭和33年、国及び県よりの強い要請によって町営の簡易水道に切り替え、その後も水道のない所に簡易水道専用水道・飲料水供給施設を布設致しまして、現在(昭和51年〔1976年〕)簡易水道13か所、専用水道1か所、飲料水供給施設4か所合計18か所となり、普及率100%となりました。しかし、早く布設した部落の施設は老朽化して、変更認可で布設替え等を計画致し毎年施工致しておりますので、水道会計は赤字をたどっております。」
 もう一つの災害は昭和49年の台風18号によるものである。
 「河川ははんらんし、町全体のすべての機関はとまり、特に住民の一番大切な水道施設、電気施設は全滅といってよい状態で、一時はどうなるかと思っておりましたが、水道係職員は一丸となって、他の職員の応援も得て日夜修理を致し1週間で全町の70%に給水することができました。その1週間は不眠不休、水の中につかって復旧致しました。完全に通水できたのは15日後でありました。一番困ったのは施設が遠く分散していることで、道路は崩れておりますので資材運搬に困りました。このようにわが町は施設が多い上に水量が少ないので、維持管理は並大抵の苦労ではありません。今後施設の統合のことも考えておりますが、これも多額の費用がいりますので……」という状況である。
 半島の小さい町で膨大な金と労力と時間をかけた給水はまさに水との闘いであった。

 イ 世紀の福音(ふくいん)南予用水

 平成4年9月8日、南予水道用水供給事業竣工落成記念式典が行われた。事前に報道した愛媛新聞には5段抜きの見出しで「宇和海沿岸2市8町潤う」とあり「南予水道用水やっと完全通水-着工から18年-」「飲料用を安定供給」と報じ、8月から給水を始めた三崎浄水場(写真1-1-10参照)を紹介している。
 同事業の完成で、宇和島から佐田岬半島までの宇和海に面した南予地域へ飲料水とかんがい用水の安定供給が図れるようになったのである。
 長年にわたって生活の水に悩み続けたこの地域の人びとにとって、とりわけ「天水うけと水こし」の生活を強いられた三崎町西部の岬端に住む人たちにはまさに世紀の福音である。
 工期は平成3年度までずれ込んだとはいえ、この地域が21世紀に託す夢は大きい。
 野村ダムは建設省直轄の多目的ダムとして昭和48年に着工し57年に完工した。この野村ダムからの利水補給(分水)によって慢性的な水不足の解消を図るため、前述の2市8町で構成する南予水道企業団が、農林水産省の南予地区国営土地改良事業との共用施設として幹線水路の建設に着手したものである。
 平成2年度までに野村ダム-吉田町間の吉田導水路6.4km、吉田町-宇和島市間の南幹線10.4kmと北幹線の吉田町-三崎町間のうち63.3km及び七つの浄水場が完成した(写真1-1-11参照)。工事と並行して給水も昭和61年の八幡浜市・保内町・吉田町・三間町を皮切りに順次進められていったのである。
 平成3年度は北幹線の残り瀬戸町と三崎町間7.2kmと三崎浄水場が完工し、平成4年8月1日から、岬端の三崎町へも給水が開始された。
 総事業費は実に175億円を超え、2市8町(給水人口174,330人)へ、日量39,310m³を供給できる。
 一方南予地区国営土地改良事業は、三間町を除く2市7町の受益面積7,200haの畑(主にみかん畑)へかんがい用水を送るもので、国営事業は平成7年、県営かんがい排水事業は平成9年の完工をめどに工事が進められている。

 ウ 南予用水と子供たち

 **さん(三崎町三崎 昭和10年生まれ 57歳)
 **さんは水道課長補佐に就任したばかりでと遠慮しながらも聞き取りに応じていただき、資料も用意してくれた。
 「これはわたしの所で作ったものですが」と出された資料は、生活用水についての小学生(三崎小学校と二名津小学校)からの質問とそれに対する水道課の回答である。
 全国規模で毎年実施されている水道週間(6月1日~6月7日)の行事として、三崎町が募集した標語・ポスターに応募した所へ配布されたものである。**さんが自身で作成し、ワープロで打ったといわれるこの資料、質問番号だけ並べ変えたという。
 昭和21年の南海地震と昭和49年の台風18号による水がれの災害を知らぬ三崎の子供達ではあるが、日々の生活の営みの中で両親や祖父母から、水の大切さや水の怖さをからだに刻み込んだ者の素朴な疑問を感じる。
 三崎町では、これまでの水の苦労を払しょくするような、歴史的な水道週間の行事が行われたものと考えた。8月1日からの、南予用水通水開始を控えた晴れがましい雰囲気を想像したのであるが、子供達の質問を見ると大変冷静な週間行事が展開されたようである。お祭り騒ぎはなかったという。
 串の古老が「上水道が来ても、タンクが要らんことがはっきりするまでは除けん。」ときっぱりいわれた顔が二重写しに浮かんでくる一方で、「水を大切に使うわたしらのあの観念無うなってしもうた。」と嘆いた女性の声も思い出されるのである。
 水道課の**さんの所では、この質問表のほかイラストで大変見やすい3枚のコピー(飲み水のできるまで、家庭の水道としくみ、絵で見る水道のれきし)を添えて応募した学校(三崎町の全小中学校)に配布した。大変わかりやすく好感のもてるもので、この機会に「水道」を理解し、水の行政に協力を求める意図もうかがえる。
 それよりもっと感心したのは、地元小中学校の地域に学ぶ姿勢である。期せずして三崎小学校と二名津小学校の生徒から質問が届いたのであるが、地に足のついた地域学習への取り組みを感じて頼もしい。
 南予用水の通水が開始されたとはいえ資源には限りがあり、水を大切に使う心を今こそ根づかせておかねばという大人の心に呼応して、子供自らが不安を抱えながらもまじめに知ろうとする姿がある。三崎町の将来にとっては大切なことである。

 エ 地下水への依存度の逓減(ていげん)

 **さん(三瓶町朝立1区 昭和10年生まれ 57歳)
 岬端の三崎町西部地区(串)と湾奥の三瓶町の水事情をみると、なるほど三瓶の人びとがいうように「水に恵まれた三瓶」である。大島や串から嫁いできた若奥さんたちが一番それを知っている。
 しかし、三瓶町も既に述べたとおり、その地形的な乏水地域であることに変わりはなく、依然として表流水・伏流水に頼らざるを得ない。
 三瓶町水道課長の**さんは町の水道事業基本構想の中でそのことを強く訴えている。
 「三瓶の上水道事業は昭和26年(27年給水開始)に町営上水道として創設されて以来第1次・第2次・第3次の拡張事業が行われて今日に至り、増加の一途をたどる水の需要に対処している。
 しかも、南予水道用水供給事業による受水は同町東部の揚簡易水道地区を吸収合併する昭和73年度(平成10年度)を目標年度とした第4次拡張事業の中に位置づけされたものである。あくまで地下水への依存度を逓減する受水でしかない。」と。
 同町では、揚簡易水道の統合のほかに、和泉簡易水道事業と鴫(しぎ)山のそれの統合及び南簡易水道事業と多くを抱えている。
 **さんに案内された有太刀(あらだち)の貯水槽(写真1-1-12参照)も当分作動し続けなければならないのである。

写真1-1-10 三崎浄水場

写真1-1-10 三崎浄水場

平成4年8月撮影

写真1-1-11 伊方町の揚水機場

写真1-1-11 伊方町の揚水機場

平成4年7月撮影

写真1-1-12 有太刀の貯水槽

写真1-1-12 有太刀の貯水槽

平成4年8月撮影