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愛媛学のすすめ

横浜学のキーワードは多様性

 ところで、「考える会」のねらいは、横浜に関することなら森羅万象どんなことでも研究しようというところにあります。現在、会員は80名で、プロの研究者からアマチュアの市民まで、その顔ぶれは多彩にして多様であり、職業・年齢もまちまちです。一人ひとりの会員がバラエティにとんだユニークな研究テーマをもっています。時間軸は幕末から現代、さらには未来をもふくむもので、自由に自らの研究テーマに取り組んでいます。あたかも会員は横浜百科全書派の様相を呈しています。
 「考える会」ではあえて横浜学の定義をしていません。というのは、会員の入会の動機はさまざまだからです。横浜の「もの・こと・人」に寄せる興味、関心、そして想いは人それぞれだからです。研究会を重ねていくなかで、一人ひとりがそれぞれの横浜学をつくりだせればよいわけです。80人の市民が集まれば、80の多様な「横浜学」があり、80の研究テーマがあり、80通りの研究方法があるというのが、現在の「考える会」のコンセプトなのです。市民のライフワーク構築の場、それが「考える会」なのです。
 では、「横浜学」を提唱した私自身は、横浜学をどうとらえているかということですが、それは巨大な「知恵のルツボ」ではないかと思っています。しかもそのルツボにはじつに多様なキーワードが融解しています。たとえば、「学」と「楽」、「内」と「外」、「日本」と「世界」、「生徒」と「先生」、「話し手」と「聞き手」、「ナショナル」と「インターナショナル」、「旧市民」と「新市民」、「過去」と「未来」、「地方」と「中央」、「可視」と「不可視」などです。これらは互いに相対するもので、横浜学を進めていくうえでどれも重要なキーワードになります。上記のキーワードのうち、私は横浜学の特色を説明するために、とくに「学」と「楽」、「内」と「外」、「生徒」と「先生」の3つをあげることにしています。
 第1番目の「学」と「楽」ですが、横浜学の「学」には、科学の「学」と音楽の「楽」という半ば相対する2つの「ガク」がうまく溶けあっているということです。つまり、横浜学には、「横浜を学ぶこと」と「横浜を楽しむこと」の、2つのコンセプトが共存しています。ショーペンハウエル流にいうと、「学」は普遍的なものへ向かう学究心、「楽」は個別的なものに向かう好奇心です。横浜学というのは、一人ひとりが自分の目的に応じて、楽しみながら、自由にしかも自主的に学ぶことによって成立するものなのです。たいせつなことは、従来の固定したイメージや手垢のついた知識や情報に惑わされることなく、自分の柔らかな頭と心で、横浜の姿をとらえなおし、自分の横浜像を組み立ててみることです。都市の学び方と楽しみ方は無数にあります。できるだけ手間と暇を惜しまずに都市横浜の諸相を一度「自分の言葉」で語ってみることが肝心です。自分の言葉を獲得するということは、自分の学び方をも発見するということです。
 第2番目の「内」と「外」のキーワードですが、これは先に述べた長崎学のものの見方のことです。「内」と「外」を、「日本」と「世界」と置き換えてもよいでしょう。また、「内」を「地方文化史」や「日本文化史」、「外」を「世界文化史」と読みかえてもよいかもしれません。横浜の「こと・もの・人」を読みとくとき、「世界」の動向、あるいは「世界文化史」の文脈を無視できません。外部の眼で横浜を検証することにより、懐古趣味の病から逃れられます。横浜学とは、タコツボの中の文化を、横浜村でしか通用しない言葉で、自慢げに語り合おうとすることではありません。
 第3番目の「生徒」と「先生」とは、「聞き手」と「話し手」のことです。これは、プロとアマの研究者が共存する横浜学の人間交流のあり方、運営の方法に関わることです。第1番目のところで、都市の学び方と楽しみ方は個人によって違ってくるといいましたが、一人で学んだり、楽しんだりすることにはたえず限界があります。多様な分野の人たちとの交流によって、個人の学び方や楽しみ方もいっそう豊かなものになり、深まりもします。
 横浜学では、プロとアマとの違いはあっても、共に教えながら学ぶ、学びながら教えあうという共学の精神をたいせつにしています。「教える者」と「学ぶ者」の位置がたえず入れかわる双方向性の学びのシステムです。従来の市民大学講座やカルチャー・センターのように知識や情報の量の大小によって「先生」と「生徒」が決まるのではなく、個人の研究テーマによって「先生」と「生徒」という位置関係が決定されます。重要なことは、目下誰がどんな研究テーマで、横浜の「もの・こと・人」をどんな視点からとらえ、どんな方法で掘りさげ、どんな新しい知見を加えようとしているのかということです。もちろん「生徒」が「先生」になるには、それなりのちょっとした努力が必要ですが、誰でもが、今日は「生徒」でも、明日は「先生」になりうる可能性を秘めています。この考え方は、私の長い編集経験から生まれたものです。「先生」が「生徒」になり、「生徒」が「先生」になるという共学については、中国の古い書物にも「教うるは学ぶの半ばなり」(「書経」)とか、「教学相長ず」(「礼記」)と記されています。
 このところ、「考える会」への問い合わせはふえています。行政の推進する「生涯学習」の影響か、はたまた既成の講座やカルチャー・センターの受身の学習に飽きてしまったのかは分かりません。その年齢層をみると、「もうすぐ定年になります」「定年になりました」という男性が45%、それから何ごとにもものおじしない40・50代の女性が40%です。残りの15%は、講座のテーマによって「懐かしくて」とか「おもしろそうだから」という学生や熟年層です。30から40代の現役のサラリーマンは意外に少ないのです。
 「考える会」の会則はじつに簡素にできています。会の主な事業は2つです。1つは会員による研究発表、これについてはのちにふれます。他の1つは会報・会誌の発行です。会誌『横浜学』は第3号まで発行しました。雑誌作りの好きな会員が担当しています。年会費は、創立時から6年間は1,200円、90年4月からは3,000円(うち500円は会誌の積み立て)になりました。会員は横浜市民だけではなく、東京・千葉・川崎・藤沢などからの参加もあります。
 事務局長である私の仕事はじつに多岐にわたり、しかも煩雑です。講師との交渉、会場探しや予約、会員やマスコミへの案内状の作成や発送、問い合わせの対応、当日の受付や例会費の徴収、録音やスライドの準備、はては年度の事業報告から会計報告まで、すべて私の仕事です。もちろんボランティアです。「横浜学」などと言いだしたものの宿命と観念しています。会の運営にあたっては、他の学会にみられるようにタテ型の人間関係にならないように気をくばっています。