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愛媛学のすすめ

私が考える地域研究の新視点~石造美術分野の場合~

 古代、石塔は滋賀県の石塔寺の三重の石塔以外は全国的に軟質の凝灰岩で造られた。
 中世、愛媛県内では鎌倉時代になると、県外産の軟質凝灰岩(主に阿蘇溶結凝灰岩)が多量に出回り、層塔・五輪塔・宝篋印塔(ほうきょういんとう)が供養塔として造られ始めた。鎌倉後期にはその形が充実する。その後、小形化、簡略化しつつ南北朝末期ころまで造立が続けられた。
 鎌倉時代中期ころ、工具の焼き入れ技術が高まり、風雨に強い硬質石材が使われ始め、しばらくの間は軟質石材との併造時代となった。
 県下の硬質石材は主として越智郡大島の花崗岩(かこうがん)が使われ始めた。これも一因として今治中心に鎌倉後期の優れた塔が数多く残っている。少数だが宝塔や層塔もある。花崗岩塔は南北朝時代から室町時代に小形化・簡略化が進んだ形で各地に数多く造られている。
 関東地方を発祥とする板碑は、県内では数少なく、県、市町村指定のもの以外は自然岩板碑も含めてまだ研究が十分でない。
 室町時代は政情・輸送の不安から、県内中央構造線沿いに産出する地元の軟質石材も硬質石材と併用が始まる時代であった。
 近世、寛文11年(1671年)ころ、江戸城の工事が終了し石大工が郷国へ帰った。このころから五輪塔は主として墓塔として多く建てられた。身分の高い者は硬質の花崗岩、農村内の指導者等は軟質の変朽安山岩、地元の凝灰岩や砂岩等を石材とするものが多かった。
 安土桃山時代から江戸時代初期に、自分の家の始祖をあがめる考え方で石祠(せきし)を造立することが盛んであった。その石材に香川県の豊島(てしま)石も使われ始めた。石灯龍(いしどうろう)や地蔵石仏にも使われ始めた。板碑は江戸初期ころからは、板碑型墓塔に変形してその姿を消してしまう。
 江戸時代、人々の往来や民間信仰が高まり巡拝塔、各種の経典供養塔、念仏塔、道標(みちしるべ)、辻灯龍(つじとうろう)等の建立が盛んになった。
 度々の飢饉(ききん)・疫病の発生などにより、各地に供養塔が建てられた。たたりを静めるための諸仏・諸神の石像なども各地に建てられた。
 江戸時代中期からの国学などの高まりで神社関係の石造物が数多く建てられた。
 石塔・石仏等の研究は、今すぐ自分が住む身近な所から始められる。各時代の示準塔の見学は自己の判断力を高めるために効果がある。グループ研究は効率的だが、自分ひとりでも研究ができる気楽な分野である。
 それぞれの石塔石仏の建立年月日又はその推定、同じものの分布、一般性、特殊性、造立者名、造立の趣旨などを調べてみると魅力ある課題が残されている。
 最近、愛大医学部の北の山ろくに全国に先例のない「賽(さい)の河原の標石」が発見できた。
 写真を貼付した調査票等を作って比較検討し、分類したりすると、はたと新事実が見付かることもある。これらが集まって石造美術分野の愛媛学が生まれるのではなかろうか。