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愛媛学のすすめ

*はじめに構想ありき、そして資料収集

伴野
 ある講演会で質問が出まして、私は中国の話をその時にしていたんですけれども。どういう人が作家になれるんですかという、非常に難しい質問なんです。これは素質があるやつがなるんですけれども。そういっただけでは実もふたもない。それでそのグループが1週間後ぐらいに、中国へ行くグループだったのです。それであなた方は万里の長城に行くだろう。北京郊外の八達嶺へ行くだろう。ここで北の方を向いて、目を閉じて思ってください。そして昔を思い返してください。北方異民族の騎馬集団の馬蹄(ばてい)の音がごうごうと耳に聞こえる人、かすかでもいいから聞こえる人は、作家になれる素質がありますと、口から出任せを言ったことがあるんですけれども。作家というのは、そういうものなのです。
 そして作家にもいろいろタイプがありまして、佐野洋さんという、この人も読売新聞出身の作家なのですが、この佐野さんというのは、非常に緻密(ちみつ)な方でして、登場人物に女性が出て来て着物を着るならば、帯留めの形まで決めないと書き出せないと言うのです。私がそんなことをしたら神経衰弱になってしまいますから、私は書きながら筋がどんどん発展していく方のタイプの作家でして、まず書き出して行く。
 一番私が大事にしておりますのは、発想なんです。『傾国伝』という本を去年書いたのですが、この本を書くきっかけは、上海におりまして、春節、中国のお正月休みですが、旧正月のお正月休みに長崎に行ったんです。本当は行ってはいけないんです。特派員は無断で日本へ帰って来てはいけないのですけれども。北京へ行くよりも早いんです。長崎の方が。長崎の稲佐山の山頂に、方位計が置いてありまして、上海の方がはるかに東京より近いわけなんです。飛行機で追い風ですと、55分ぐらいでついてしまいます。北京へ行くと1時間45分ぐらいかかる。
 上海から長崎は非常に近い。そのため戦前は、長崎県上海市と言われたぐらいのものでして、非常に密接な関係があるんですけれども。その長崎に行きまして、雲仙に泊まりました。まだ雲仙が噴火する前です。そして原城址(じょうし)、島原の乱があって、天草四郎が死んだ原城址へ行きまして、事件を説明した立て札が立ってあるわけです。その立て札を見ておりましたら、乱の終結は1638年2月末であったと書いてあったのです。その時私の頭をよぎったのが、明の滅亡が1644年ではなかったか。そうすると、この間わずか6年しかない。6年というのは、歴史では極めて近いニアミスである。ここに何か物語が作れないだろうかというのが、最初の発想だった。
 明か滅んだのは、李自成という農民革命軍に滅ぼされたわけですが、その農民革命軍が北京を占領した際に、呉三桂という明の将軍が、万里の長城の一番東の端の山海関を守っていました。その人の愛妾(しょう)である陳円円という女が李自成軍に捕まります。それを知った呉三桂は、そのために怒って山海関の門を開いて、清の部隊を引き入れるわけです。これが李自成を追い散らして、完全に明は滅んだ。そこで清朝が北京に生まれるわけなんです。
 その陳円円という人は蘇州(スーチョウ)生まれだということが分かっていて、大変な美女、傾国の美女なんですけれども、身元がよく分からない。この身元がよく分からないというのが、我々小説家にとっては一番有り難いことでして。これを天草四郎の娘にできないか。どう考えても、娘は無理なんです。当時天草四郎が17歳で死んでいますから、15歳で生ませたとしても8歳にしかならない。これではどうしようもない。それで妹にしました。本当はまんという妹が一人いるんですが、もう一人まどかという妹を作りました。島原のキリシタン軍は幕府軍を殲滅(せんめつ)する必要はないわけです。幕府軍に打撃を与えて、九州をあきらめさせればいいのです。
 戦争にはいろんな戦い方がありまして、包囲殲滅しなければならないという戦い方と、打撃を与えて、あきらめさせればいい。そういう戦争だったわけです。これはどこかに援軍を頼む可能性は非常にある。それはどこだろう。これは明ではないか。明の有力者と、幕府軍が九州をあきらめたあかつきには、琉球一円と四国ぐらいやるという密約を結べば、これは成り立つのではないか。
 そのために、まどかを人質として差し出す。だけど、明の有力者は、その密約を裏切って兵を送らなかった。それであの天草四郎は涙を飲んで原城址(じょうし)の露と消える。彼の妹は、蘇州で成長して陳円円となる。そして北京へ上がって呉三桂に取り込む。そういう筋立てを考えたのです。
 そこまで考えつけば、それに必要な資料を集めればいいんです。僕は無駄なことはしない主義なんです。一杯持ってきて、その中から取るということは、時間的にもしんどいですし、それは私はやらない。極端な言い方ですが、私は都合のいいものだけを集めて来る。その方が小説としては、効果があるわけです。
 ただ心配なのは、これは女房に言われたのですけれども、「あなた、受験生がもしあなたの小説を読んで、試験で、島原の乱と関係のあるものを結べというので、明の滅亡なんて線を引いたらどうするの」と言うから、それは俺の本をそういう時期に読んだということで、運が悪かったと思ってあきらめてもらうほかないなという返事をしたのですが。
 私の小説には、読者との暗黙の了解事項があります。私の小説というのは、大体事実の上にフィクションを構築していくわけですありますから、そのフィクションと歴史的事実とのすきまが、うまく埋めないと、いい加減につけたのでは、剝(はく)離したり遊離してしまうわけです。すると読者は一目瞭然で分かってしまう。これはここからここまでが本当でここからここがうそだなというのが分かってしまうのは困るわけです。どこまでが本当でどこからがうそかというのが分からなければ、私の勝ち。ここは伴野さん、はっきり分かるじゃないですか、ここからここまでが本当で、ここからここまでがフィクションでしょうと言われれば、私の負けと。こういう読者との間に、そういう暗黙の了解が私はあるように思うのです。どこまでが本当ですかなんていう、野暮な論議はやめて、私の本を読む時は、だまされてくださいということを、よく私の本を読んでくださる人の会では申し上げるんです。
 そういう発想の一つの持ち方。発想の得方というのが、愛媛学なりを考える場合に、一つの御参考になるのではないかと思います。

讃岐
 はい、ありがとうございました。あまり「まどか」ばかり作っていっても困るんでしょうけれども、資料の重要性みたいなところを教えていただきました。構想があって、資料を集めて行く。あるいは資料からまた新しい構想が生まれてくるという、その辺の所がおもしろいですね。
 池内先生、どうでしょうか。あまり時間がなくなったのですけれども。