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愛媛学のすすめ

ハレとケ

 今まで申し上げたことを、ちょっと総括風に申しますと、一方で高級文化ないし職業的芸術家の作り上げた文化があり、他方では生活者の文化がある。この生活者の文化を考えていく時に、ここでちょっと御紹介しておきたいのは、また再び日本民俗学の話になりますけれども、「ハレ」と「ケ」という、二つの生活領域のことであります。
 民俗学のことを、多少御存知の方には、これは実につまらない初歩的なことかもしれませんけれども、私たちの生活にはある種のリズムと抑揚というものが、どうやらあるようです。その抑揚のことを民俗学者は「ハレ」と「ケ」という二つの分け方で分けました。
 「ハレ」というのは、例えば衣料品について申しますと、先程加賀友禅のことだの、西陣のことだの申し上げましたけれども、それほど高級な芸術品でないにしても、私たちは晴着というものを持っています。晴着というのは、冠婚葬祭、それから季節の年中行事などの時に身につけるのが、これが晴着というものでございます。1月になりますと成人式というのがあって、若いお嬢さん方は、そこで初めてお振袖というのをお召しになるわけですけれども、これは晴着でございます。
 それに対して普段着というのがございます。もっと厳密に申しますと、普段着の他にもう一つ仕事着というのがあるんですけれども、この普段着というのは、実は「ケ」の世界です。「ケ」というのは日常ということでございます。普段ということです。
 ハレの食事というものもございます。これは一番代表的なのは全国通じて言えますのは、お正月のお節料理みたいなものであります。お節料理というのは、語源的に言いますと、季節の節という字を書いての節会というのがございました。年に何回か節会がございますけれども、その中の一つ、お正月だけが残って、お節料理。これは地方によって、随分味付けだの、あるいは献立の内容だのは違いますけれども、これはハレの食事でございます。お屠蘇(とそ)を祝って、お雑煮を作る。そしてそれを三段重ねのお重に入れたりなんかしまして、新しい年を迎え、普段とは違った食事を作る。これはハレの食事であります。
 ごく現代的な話で申しますと、お誕生日にバースデーケーキを作って、それを皆でいただく。これもハレの食事でありますし、結婚式の披露宴で出される食事も、またハレの食事でございます。
 しかし普段の食事というのは、そうではありません。朝御飯は、御飯と味噌汁と漬物、それに海苔。あるいは洋風になってまいりますと、トーストとコーヒーと果物。これは普段の食事です。ケの食事です。
 人間、とりわけ生活者というのは、なかなか知恵のある動物でございまして、このハレとケのリズムを作ることで、生きがいというのを作ってきたような気がしないでもない。毎日がケでございますと、本当にこれは退屈しごく、単調なことになります。毎日、それは普段なんだから普段でよろしいんですけれども、たまには晴着も着てみたい。たまにはハレの食事も作りたい、食べてみたい。我々の祖先というのは、大変知恵がございました。これも何代かにわたっての伝承から出てきたものでしょうけれども、ずっと長い間ケが続いていたのでは、どうにもこれは平凡、単調でやりきれないというので、所々にハレを作っていきます。年中行事というのはそうであります。冠婚葬祭もまたそうであります。
 多少話題がずれるようですけれども、ちょっとお許しいただいて、このハレとケの間に、もう一つ別な中間項を入れた、新しいこのごろの学説を御紹介しておきましょう。それは「ケガレ」という観念でございます。ケガレというのは、大体汚れたことというふうに我々は考えております。ケガレがあるから、そのケガレを取らなければいけないわけですけれども、ここ10年ほどの間に、日本の民俗学者たちが、大変おもしろいことを発見いたしました。
 ケガレというのは、この説によりますと、ケの状態が枯れることなんです。これはいろいろまだ学説上、学者の間では論争のあるところなのですけれども、このケというのは、別段、字で残っているわけではない。話し言葉だけで伝えられている言葉でございますけれども、ケというのは普段ということでもありますし、同時に「気」という観念がございます。元気とかお天気とかいう時の気です。この気の中で、物事の気配とか、気という字を「ケ」と読むことかおりますが、その気なんです。
 気が枯れた状態、つまり元気でない状態です。気功術なんてはやっておりますけれども、我々の中には気というものがたぶんあるに違いない。元気になったり病気になったり、気が動くことによって、我々の心の状態、体の状態が変わるんですが、その元気の気が、ちょうど植物が枯れていくのと同じように、枯れていったその状態がケガレなのです。ケガレを取るために、ハレの日を用意する。
 ですから従来ありましたようなハレとケという二分法ではなくて、ケがずっと続いて行くと、そのケがいつの間にか、だんだんと枯れてくる。元気がなくなってくる。そのケが枯れた状態、ケガレをもう一度取り戻して、再び平常のケの状態に戻すために、ハレというのが用意されているんだというのが、最近の民俗学者の説でございます。
 今のようなことを申し上げた理由と言いますのは、この生活文化の中には、ハレとケと、この二つがあって、同時になぜハレを作らなければいけないかと言えば、そこにはケガレという観念があるからだということを申し上げたかったからなのです。
 このことと、今日ここで語られる愛媛学との間に、どういう関係があるのかということになります。例えばこういう催しを持たれること自体が、実はハレの場なのでございます。晴れの舞台なんてということを、よく申しますけれども、晴れの舞台というのは、お天気がいいという晴れではございませんので、私は今晴れの舞台に立たせていただいているわけですが、私の日常とは違う状態の自分がここにいるわけです。
 また皆さんも、毎日ここの小劇場にお通いになっているわけではなくて、年に何回か足をお運びになる。その程度でございましょう。ということは、これもまたハレの日なのであります。さまざまな祝典とか行事とかいったのは、まさしくケガレからそのケをもう一度復活させて、元気にさせる。そういう場面なのです。そして、この生活文化というのは、そのハレの場と、それからケの場を、常に上手に用意してきたし、これからも用意していかなければなりません。
 例えばの話ですが、皆さんの中でスポーツをなさっていらっしゃる方は、たくさんいらっしゃると思います。スポーツもまた生活文化の一領域であります。それはゴルフであることもありましょうし、ゲートボールであることもありましょう。ボーリングであることもあるでしょうし、野球であるかもしれない。釣りであるかもしれない。
 これは普段、川に出掛けて行って釣りをする。テニスコートでテニスをしている。これはケでございます。しかし年に一度ぐらい、テニスのトーナメントがあったり、あるいは歌を歌うことがお好きな方々は、ケの状態では毎日鼻唄を歌っておられるかもしれないけれども、やはり年に一度ぐらい県のコンクールとか、町のコンテストとか、そうした晴れの舞台が用意されることで、ケにまたもう一度はずみが付くんです。そこで知事さんから表彰されることが、決して目的ではありませんけれども、毎日自分が少しずつ向上していっている。それを何かの形で表現する場面が用意されますと、それがハレの場面になって、またもう一度ケに力がついて来る。こういうわけでございます。