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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)家族総出でヤナギ(ミツマタ)作り

 焼畑の栽培作物のなかにミツマタがある。ミツマタは良質和紙の原料や紙幣の原料に使用される。明治20年(1887年)ころから柳谷村に導入されたミツマタ作りは、焼畑山村の最大の現金収入源になった。昭和に入ってからは、焼畑の目的も食糧生産から商品作物としてのミツマタ作りに変化した。ミツマタ作りは多くの労力を要し、女性も加わって家族総出で行った。特に最終工程の白皮作りは女性の大きな仕事であった。ミツマタ作りを支えた女性の仕事と生活について**さん、**さん、**さんは次のように話す。

 ア 蓑を着てヤナギ畑へ

 「私(**さん)の一つ上の学年から新制中学になり、私は中学校を卒業しました。中学校を卒業したら同級生の女子は、ほとんどが大阪の紡績会社へ就職していました。私も大阪へ行きたかったのですが、実家が大きな農家でそれを手伝わなければならないことと、親が紡績会社に行くと肺病になると言って行かせてくれなかったのです。それで毎日、姉と家の手伝いをしていました。今は杉山になっていますが、昔はこの辺の山は、全部ヤナギ畑でした。
 毎日、ヤナギ畑へ行っていました。夏場は日よけに、雨が降るとカッパの代わりに蓑(みの)を着てヤナギ畑に行っていました。娘時分に蓑を着て、腰にカッコをつってくすぶらせながら毎日姉妹で山へ行っていました。カッコは今の蚊取り線香の代わりで、木綿のボロ布をカヤで包んだものをくすぶらせるのです。途中で若い男の人に会ったら恥ずかしかったです。山ではヤナギ畑の草をとります。春は草を手で引いて、夏は鍬(すき)でかいて除(の)け、秋は草をむしっていました。手袋もない時代だったので手が草や木で切れて本当に痛かったです。夜は比較的早く仕事を終えていたように思います。夏には川で魚を釣ったりしていました。青年団で会堂へ集まってカルタやトランプをするのが楽しみでした。青年団で芝居をすることもありました。堀部安兵衛なんかをしました。年に1度、芝居が来てそれを見るのも楽しみの一つでした。芝居は柳谷の集落をまわって興行していました。結婚してしばらくするまで映画館もあり、映画を見るのも楽しみでした。」

 イ 白皮作りは女性の仕事

 「ヤナギはとるまでに5年かかります。種を5月にとって、土の中に生けておきます。シュロの葉に包んで、乾かすと良くないので水がかかる土の中に生けておくのです。翌年の3月に掘り出して種をまきます。1年間それをおいて苗を作り、その苗を山へ持って行って植えるのです。植えてから3年目にそれを切りとります。切りとったところから芽がどんどん出てくるので、それを1年おどらし(生い茂らし)たら、その中から太いものを順々に切りとっていきます。
 ヤナギを切るのは、11月から3月ころです。ヤナギの花が咲くまでです。切りとったヤナギは家まで運ぶのですが、それが難儀でした。実家のある百景市は山が立っていてさがしい(険しい)のです。ヤナギの収穫の時期になると、父と兄が山でヤナギを切ります。切ったヤナギを『サルギカイ』という8番線の針金に滑車をつけた簡易な索道で、20束(1束は両手で抱えるぐらいの大きさ)ずつ谷へ滑り降ろします。それを私たち女の人が下で受けとり家まで運ぶのです。リヤカーが通れる道はリヤカーに積んで運ぶのですが、最後はオイコで家まで担ぎ上げなくてはなりません。ヤナギだけでなく、ヤナギを蒸すために薪が必要なので、それも家に担ぎ上げます。切ったヤナギは実家では3日に1回のペースで蒸していました。百景市には、各家の庭に釜が置いてありました。ヤナギを6束ずつ束にして直径1mぐらいのお釜に立てて入れます。その上に直径1.3m、高さ1.8mのこしきをかぶせて2時間から3時間ぐらい蒸します。蒸しあがるとそれを家族みんなで皮をはぐのです。股になったようなものを使って皮をはぐところもありますが、それは使っていませんでした。皮をはぐときは、足で押さえてはいでいました。父と母と兄が蒸しあがったヤナギの皮をはぎます。それを水につけておいて私と姉が『キカイ』(ミツマタの皮をはぐ道具)でこすって黒い皮をのけていました。そして、それを庭や道端に2日ぐらい干して乾かします。乾いたものを5貫(約18.75kg)ごとに分けて農協へ持って行っていました。『政府行き』といって造幣局へ行ってお札の原料になるものもありましたが、それは皮をはいで水で何回もさらさなければならないのです。私らは、蒸して皮をはいで黒い皮をのけたもの(白皮)を出していました。ヤナギやカミソの仲買をしている人もいました。1年間に300貫(約1,125kg)ぐらい出していたと思います。昭和30年(1955年)ころ、ヤナギは10貫(約37.5kg)で3,000円でした。当時は、ヤナギ以外に現金収入がなかったので家族総出でやっていました。」

 ウ 嫁ぎ先でもヤナギ作り 

 「結婚はお見合い、親や親戚(しんせき)が決めたところへ行きました。私は姉が結婚する時に、姉の旦那のいとこが、連(つ)れ婿(むこ)(嫁の実家から嫁を婿方へ連れて来る婿方の代表者)でやってきました。それで見初められて結婚しました。姉は昭和28年(1953年)に柳谷の西村(にしむら)へ嫁ぎ、私は30年に岩川(いわかわ)へ嫁に行きました。
 嫁ぎ先でも、ヤナギを作っていました。同じ柳谷でも嫁ぎ先の岩川は、実家の百景市と比べると山がそんなに険しくないので簡易の索道をつけて切りとったヤナギを家まで降ろすことができないのです。岩川では、山にあるヤナギ畑の近くに山小屋を作って、そこに釜を置いていました。小屋は泊まれるようになっており、収穫の時期には男の人が泊まって作業をしていました。ヤナギを蒸す日は、朝4時ころから男の人が山小屋でヤナギを蒸し、夜が明けるころに女の人や子どもが行って、ちょうど蒸しあがったヤナギの皮をはいでいました。皮をはぐのは、大勢の人がいるので家族が少ない家は近所や親戚の人がお手あい(手伝い)にきていました。小屋で皮をとったら、それをキンマ(木材などを搬出する木製の道具で道の上を滑らせて運ぶ)やオイコに積んで下ろしていました。岩川は田んぼや畑がたくさんあるところなので、ヤナギ畑はそんなに広くありません。
 西村でもヤナギは作っていましたが、西村では、切ったヤナギをオイコで下ろさなければならないので難儀しました。百景市は山が険しいので田んぼや畑が少なくヤナギの他に作れるものがありません。ですから山にはたくさんのヤナギ畑がありました。柳谷でも百景市や西谷はヤナギの産地でたくさん作っていました。 
 カミソは畑のきわ(はし)に植えていました。カミソは株がはっていくのでいくらでも増えます。毎年いっぱい芽が出るので、今年生えたものは大きいものから小さいものまで全部切ってしまいます。そうすると次の年には切ったところから芽が出てくるのです。ヤナギよりも手がかかりません。カミソも蒸して皮をはぎ、水につけておいて、包丁で荒皮をはいでいきます。実家ではカミソも農協へ出していましたが、嫁ぎ先では、仲買さんに売っていました。
 昭和30年(1955年)ころからタバコも栽培するようになりました。ヤナギが忙しいのは冬ですから問題ありません。タバコは、落合(おちあい)に専売公社の倉庫があって、そこに持って行っていました。そこで等級がつけられ、値段が決まっていました。タバコも現金収入を得る手段となりました。」