データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(4)夫婦船

 古くから好漁場に恵まれた鳥津地区では、夫婦で漁に出る家は多い。漁での女性の仕事と漁の様子について**さん、**さんに話を聞いた。

 ア 小さくても自分たちの船

 **さんは次のように話す。
 「終戦になり、こっちに帰ってきて昭和21年(1946年)に主人と恋愛結婚をしました。結婚してしばらくの間は漁には出ず、段々畑でサツマイモや麦を作っていました。切り干しを売った収入や、主人の出稼ぎでの収入を貯めて中古の船を買ってから漁に出るようになりました。結婚して5年ぐらい経っていたと思います。それまで漁をした経験がなかったので苦労をしました。最初は、船に乗ったら船酔いをしてゲェーゲェー吐いていました。港に帰り、船をつけ魚をより分けている時も吐いていました。周りの人からも気の毒がられたことを憶(おぼ)えています。」
 また、**さんは次のように話す。
 「昭和34年(1959年)に結婚し、主人と2人で小さな船に乗り、イカの一本釣りや集魚灯をつけてアジをとっていました。子どもがお腹にいるときも、つわりで吐いているのに漁に出なければならず、しんどかったです。自分たちの船を買ったのは、結婚してからです。最初は、機械のついた中古の小さい船でした。三崎(みさき)の串(くし)や宇和島(うわじま)に行って船を見てまわり、最初の船は串で買いました。船代はローンを組んだりしないで現金で支払いました。みんな、そうしていました。新造船は高いので、最初は、中古の小さい船を買って、稼いだお金でだんだん大きな船を買っていきました。台風で船がひっくりかえったので買い替えたこともありました。」

 イ 今日の出買はなんぼ
 
 **さんは次のように話す。 
 「手繰(てぐ)り、底引き網、建網(たてあみ)、タコ壺(つぼ)漁などいろいろやっていました。建網は、朝4時ころから行って網を引き上げて昼ごろに港に帰ります。それから網を準備して夕方また行って網を建てます。主人と一緒に網を上げて、網から魚を抜いてそれをより分けるのが私の仕事でした。タコ壺は、壺の中にえさのカニを縛って入れて沈めておきます、2、3日置いて上げにいくとタコが入っているのです。主人がどんどん引き上げるので、壺に入っているタコをとって、空の壺にえさのカニを縛りつけます。朝から晩まで中腰の作業なので腰が痛くてたまらなかったです。底引き、手繰りは朝から晩までします。1日に網を3回か4回ぐらい上げていました。1回網を上げては、魚をとって下ろします。主人が櫓(ろ)をこぎ、私は上げた網の魚をより分けていきます。エビ、カレイ、タチウオ、タコなどいろいろな魚をとっていました。とった魚は昭和30年代から40年ごろまでは出買(でがい)・沖買(おきがい)という、沖で漁をしているところに船を横付けして、とった魚を買いに来る業者がいました。海上での取引です。『今日は、何と何と何だからなんぼ。』というようにその場で現金取引をしていました。『今日は出買がなんぼあった。』と言って精が出ました。出買は、長浜(ながはま)から浦上さんや浜田さんという業者が来ていました。浦上さんは今も長浜で鮮魚店をしていて、車で時々買いに来ています。出買の人と値段が合わなくて売れなかったときや出買が来ないときは、船で三机(みつくえ)に持って行きました。昭和40年(1965年)以降は道路もできたので、車で八幡浜(やわたはま)の魚市場に持って行くようになりました。漁に出るようになってからは、主人は出稼ぎに行かずに2人で1年中、漁をしていました。沖へ行かないときには、畑仕事があるので山へ上がっていました。子どもが生まれる1日前にも、麦にまくための肥を担いで山へ上がっていました。漁、畑仕事、炊事、洗濯と夜寝る時間がないぐらい働いていました。掃除をする時間すらありませんでした。」
 また、**さんは次のように話す。
 「出買は市場に出すよりも値が良かったです。昭和30年代後半に、イカ釣りで10日分の出買で10数万円稼いだこともありました。当時は、半紙1枚分ぐらいの大きさのイカがたくさん釣れました。」