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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)「勉強なんかせんでもええ」

 子どものころの手伝いについて、**さんは次のように話す。
 「私は9人兄弟の長女で、私が結婚するまでに実家の家族は祖父母、父母、兄弟の12人家族で1ダース家族と言っていました。どこの家でも家族が多かったので、みんな食べるものを作るのに必死でした。小学校の時に、宿題をしていて山へ行くのが遅くなったら、お母さんに『そんな、勉強なんかせんでもええのや。』と怒られました。男は外へ仕事に出ていたので、女親や子どもが畑でイモや麦を作っていました。今でこそ雑木林になり荒れていますが、この辺りは田んぼはなく下から空の方(山頂)まで全部段々畑でした。半島の全てが段々畑で空いている土地はなかったです。荷物は全部、オイコで背負っていました。子どもは、子ども用のオイコを作ってもらい10kgぐらいの荷物を背負っていました。サツマイモの収穫の時期は、サツマイモをホゴ(わらであんだ籠(かご))に入れて、オイコに乗せて運んでいました。ホゴは祖父がよく編んでいました。冬になると草履を履いて麦踏みの手伝いもしました。祖父が家族全員の草履をわらで編んでくれました。外で仕事ができない雨の降った日に、夜なべで草履を作っていましたが、その時に祖父の横でわらをよく打たされました。小学校には農繁休業がありました。サツマイモと麦を作っていたので、農繁期のサツマイモを植える6月と収穫の10月に1週間ぐらいありました。」
 また、**さんは次のように話す。
 「私は4人兄弟の長女で、下に弟が3人いたので子守をよくしました。いつも子守をしながら遊んでいました。ドッジボールをよくしましたが、私は弟を背負っているので動くことができず『おまえが入ったら負ける。』とよく言われました。子守をしなくて遊べる人がうらやましかったです。小学校は加周(かしゅう)にあり、急な坂道を登って峠を越えて通っていました。歩いて40分ぐらいかかっていました。小学校のころは、サツマイモや麦を植えるのを手伝い、畑にまく下肥(しもごえ)を担がされ勉強どころではありませんでした。6月半ばにサツマイモを植えます。その時にサツマイモのつる(苗)を配る手伝いをしていました。草履を履いていると、土でドロドロになって汚れるので、裸足になってしていました。ご飯をつくる母親の手伝いもよくしました。」