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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)祭りの日の女性

 東温市の**さんは、「紋日(もんび)のご馳走(ちそう)作りは、主婦にとってかなりな負担でしたが、結構楽しみながらやっていました。親戚(せき)が泊まりにくるのは秋祭りの日です。昔は地域により祭りの日が違っていたので、行ったり来たりしていました。秋祭りの時は、公民館の近くの広場に魚屋さんが30も40も店を出して競って魚を売っていました。お祭りの時は、普段食べることのできないご馳走が食べられるので本当に楽しみでした。主婦はお金を使って料理を作れるし、腕の見せ所でした。大変なのは母屋(おもや)(長男の家)で、親族が集まるので接待に追われました。『母屋に嫁ぐと大変よ。』とよく聞きましたが、母屋でないところはそんなに大変ではなかったようです。」と話す。
 松野町の**さんは、「結婚してから正月には必ず自分でおせち料理を作りました。今でも毎年お節料理は作っています。作ったものを重重(かさねじゅう)に入れて風呂敷(ふろしき)に包み、松山の子どもの所に毎年持って行きます。お節料理の作り方は、子どものときから母の作っているのを見て自然に覚えました。お花見のときの弁当は、まず巻き寿司を作ります。子どもがいるときには20本くらいは巻きました。そしてお弁当を持って山に遊びに行きました。ひなあらしは、4月3日にしていました。私が子どものときも母親が巻き寿司などを作ってお重に入れ、山に行楽に出かけていました。これは近所中みんなやっていた習慣で、楽しみでした。ひなあらしは松野でも吉田でもありましたが、現在は見ないようになりました。地方祭のときもご馳走(ちそう)を作りましたが、わたしが子どもの時はすごかったです。親せきが前の日から泊りがけでやってきました。前日から栗を入れたおこわご飯を炊き、お寿司を作り、祭りの前日には親戚(しんせき)中に配ります。祭りの当日は鉢盛で料理をたくさん作り、実家の下の道を通る人を招き入れ、料理をふるまいました。下の道を通る人といっても、みんな気心の知れた近所の人です。『あがんなはい、来なはい。』といってご馳走しました。呼んで呼ばれての付き合いでした。男の子は牛鬼を担ぐので、家を一軒一軒回ってご祝儀をもらい、昔は各家でご馳走を食べさせてもらいました。女の子は着物を着ておしゃれをするのが楽しみでした。」と話す。
 新居浜市の皆さんは、「太鼓祭りは、今は市内で統一(昭和41年〔1966年〕から)されていますが、昔は川東地区が10月13、14、15日で、川西地区が16、17、18日、上部地区が21、22、23日でした。新居浜市内で十日くらいにわたり、どこかでお祭りがありました。それぞれの地区の祭りの時には親戚や知り合いがやってくるので、主婦はお接待をしなければなりません。それが大変だということで祭りが統一されたのです。お呼ばれに行くことを新居浜では『いぼ』に行くといいます。『いぼ』で食べる物や飲む物の準備は、主婦にとって大きな負担でした。祭りは主婦にとっては楽しむどころではなく、むしろないほうがよかったのです。」と話す。また**さんは、「家がお宮(八幡神社)の近くなので、知り合いがちょっと寄ることが多かったのですが、寄った時に何もないでは済まされないので、祭りの3日間は食べることで追いまくられました。男の人は太鼓を担いでお酒を飲んでご機嫌でしたが、主婦は本当に大変だったのです。自分の地区の祭りが終わっても、よそに『いぼ』に行くのは男の人だけで、主婦は疲れていて行く気はしませんでした。年中行事で主婦の楽しみはほとんど記憶になく、何かあったらご馳走作りと接待に追われました。年末の餅(もち)つきはずっと家でしています。私の家の餅つきは、親戚の人(嫁入りしたご主人の妹など)がもち米を持って集まり、一日かけてつくのですが、私は餅つきにはタッチせず、お昼のご飯などの準備に忙しかったです。舅(しゅうと)や姑(しゅうとめ)が長男を大事にするため、餅つきは弟や妹の家族を中心に進められ、餅つきに関しては長男や長男の嫁は楽をさせてもらいました。しかし長男の嫁は他のことで大変でした。」と話す。
 四国中央市の皆さんは、「年中行事でご馳走(ちそう)を作るのは、正月、盆、祭りくらいでしょうか。とにかく親戚(しんせき)中が集まる日は大変でした。寒川では新長谷(しんはせ)寺の祭りが7月と1月にありますが、そのときには『メイボ』をうけるといって、親戚がお呼ばれにやってくるので、ご馳走のお接待をしなければなりません。ハモの吸い物やばら寿司、焼き魚、煮魚、吸い物やあえ物などを作りました。10月の地方祭にも『メイボ』で親戚が来ました。一番多く来たときは、30人も集まりました。このときはクドでお寿司用の米を3升ずつ二つ炊いて準備しました。昔は地域により祭りの日が違ったので、近隣の親戚が祭りのたびに子どもを連れて祭りのある家に集まりました。中には2日間ぐらい泊まっていく人もいました。親戚は長男(跡取り)の家によく集まるため、長男の嫁は『メイボ』の接待に追われて大変だったのです。後片付けも、塗り物のお椀(わん)はお湯を通す必要があり、手間がかかって大変だったので、漆塗りのお椀はいやでした。今は祭りの日も統一されたのでそういうこともなくなりました。しかし50年も前に『メイボ』で接待してあげた人が、今も『あの時はご馳走になった。』と覚えてくれています。」と話す。また**さんは、「昔の農家は、田植えが済んだら7月に田植え休みがありました。このとき『アシアライ(足洗い)』といって、嫁は1週間ぐらい実家に帰れました。それが唯一の楽しみでした。」と話す。
 年中行事は、どの地域でも表に出て活躍し楽しむのはほとんど男性で、女性は裏方としてご馳走作りと接待に追われた。親戚や知人同士で紋日のお呼ばれは楽しみなことだったが、女性にとっては普段の家事労働に加えて家族以外のご馳走作りや接待が加わるため、大変な一日だったのである。