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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(4)三崎の漁業

 「三崎のおもな漁法は、一本釣り、潜水漁法と網漁法です。激しい潮流と岩礁の多い三崎の沿岸のすべてが採介・採藻の好漁場なのです。特に岬の先端部は潮の流れが速いため貝類の生育が早いのです。三崎湾を除いた宇和海側で採介量の7~8割を水揚げしているのです。先端部とともに三崎灘に面した童子碆(どうじばえ)から名取(なとり)に至る海岸部も海士の好漁場となっています。
 また三崎の沿岸一帯は一本釣りの好漁場でもあるのです。ハマチ・タイは1年中、冬から春には高価なイカ、夏はアジがよく釣れます。海士漁業とともにハマチ一本釣りは三崎の代表的な漁業でしたが、昭和30年を境に漁獲が減り、タチウオの漁獲が増えてくるようになっています。イセエビや磯魚は建網でとりますが、名取から大久(おおく)までの沿岸部がよい漁場です。
 キンメダイを主とする沖合漁業は、伊豆(いず)近海の三崎漁協下田(しもだ)出張所を通じて水揚げしているのです。」
 
 ア 海士漁業

 「能登(のと)半島や三重(みえ)では女が採介、採藻をし、『海女』と呼ばれていますが、三崎では男がそれらの仕事に従事し『海士』と呼ばれているのです。三崎の海士は平成4年に98名が組合員として登録されています。昭和22年(1947年)には330名を数え、昭和39年(1964年)には210名に、昭和49年(1974年)には140名と海士の数も減少してきているのです。
 三崎漁業協同組合の中に海士組合があって、この組合の話し合いにより、漁場管理や操業の自主規制がなされているのです。昭和30年代後半には、操業時間も午前8時から午後4時までとし、さらに一日の漁獲量もサザエで30kgまでと決められました。採介したサザエ、アワビなどは昔は海士の寄り合いで決めた値で、地元の集荷人に売っていましたが、昭和30年代には原則として、他の漁獲物とともに組合を通じて販売するようになりました。
 昭和35年(1960年)には専用の運搬船一進丸が建造され、魚介類を広島・呉・尾道(おのみち)・下関(しものせき)・三津(みつ)・大阪の魚市場に直接出荷するようになりました。時代が下がり平成に入ると、活魚運搬の技術の進歩とバイパスの開通によって、漁協-松山-東京の運搬も活発になり、生きの良い三崎の魚を、都会の人々に届けられるようになっているのです。」
 
 イ 沖合漁業と蓄養池の建設

 「三崎漁協の発展に大きい貢献をしたのは、専務理事の加藤益太郎でした。沖合漁業は、昭和31年(1956年)から伊豆沖にはじめて出漁しました。フグ延縄(はえなわ)漁業者が、漁閑期を利用して、静岡(しずおか)県の下田港を基地にして、キンメダイを釣ろうとしたものでした。しかし下田漁協から不合理な船宿制度を押しつけられて、キンメダイの価格が低く抑えられたのでした。そこで加藤は、昭和33年(1958年)に三崎漁協の出張所を下田に設置して、下田漁協に対抗して共販を計画し、東京の築地市場の仲買人に参加してもらって共販を立ち上げたのです。昭和50年代には、キンメダイ漁業が三崎漁協扱いの鮮魚の中では最大の水揚げとなっていたのです。
 加藤は京阪神や関東各地を視察して、外洋のサザエが三崎の何倍もの価格で取り引きされているのを知ったのです。またサザエやアワビは8~9月が端境期で、秋になると品薄になるのです。そのころまで生きたまま保存できれば、海士たちの経営がずいぶんよくなるのです。なにか方法はないかと寝ても覚めても考えていた加藤は、岬の突端の向こうの御篭(みかご)島をみたとき、蓄養池がひらめいたそうです。突端と島の間は100mほどで、自然の潮流が断崖にぶつかって激しく白い波を立てているのです。
 昭和43年(1968年)8月、面積3,000m²の蓄養池が国と県の構造改善事業の適用を受けて、総工費6,672万円で完成したのです。採取されたアワビやサザエ、イセエビなどを蓄養し、出荷調整を行うことができるようになったのです。