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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)空洞化の進展

 ア 郊外へ転出する人々

 番町地区の人口は、昭和30年(1955年)には12,254人であったが、昭和40年代、50年代に急減し、平成19年9月1日現在、3,490人になっている(図表2-2-10参照)。年齢別性別人口構成図(図表2-2-11参照)をみると、15歳未満の子どもの数が極端に少なく(7%)、65歳以上の高齢者の割合が多く(29%)、少子高齢化がかなり進んでいることがわかる。番町地区は市街地の中心に位置しながら、山間部のような過疎や少子高齢化が進行しているのである。
 この原因は、戦後の高度経済成長期に進行した人口の空洞化(ドーナツ化)現象によるものである。都心部に官公庁や商業施設が集積するにつれて地価は高騰し、住民は郊外へ転出していった。人口の空洞化が進む番町地区について、**さんは次のように話す。
 「このへんには病院がたくさんありました。うちのように日赤の医者だった方が開業された場合もあります。しかし高度成長期の後、後継者がよそに出て行ったり、よそで開業したり、後継者がいない場合は転居する人が多くなりました。うちのように病院と家が一緒ではなく、よそに持ち家がある病院が多かったので、そっちに行ったのでしょう。うちが病院をやめたのは平成2年で、後継者はおりません。二番町から千舟町にかけてあった花街も、売春防止法(昭和32年施行)の後なくなり、多かった旅館も小料理屋や駐車場に変わっていきました。」
 
 イ 仕事で集まる人々

 平成13年の統計(松山市統計書)によると、番町地区の夜間人口(常住人口)は約3,500人であるのに対して、番町地区の事業所の従業者数は34,038人(うちサービス業10,156人、卸売・小売、飲食店10,845人)となっている。これに買い物客や仕事の関係者等を入れると、夜間人口の十倍以上の人間が昼間集まっていることになる。番町地区の従業者数は松山市全体の15%を占め、中でも金融・保険業(松山市全体の54.8%)、公務(同49.9%)の割合が高い。このことは、番町地区が松山市の中心業務地区であることを示している。
 「現在一番町、二番町はオフィス街になり、住民はほとんどいなくなりました。逆に昼間は働く人が多く集まって来ます。夜になると昔の北京町(現二番町2丁目あたり)あたりがにぎわっています。うちの近くには南高(松山南高等学校)、工業(松山工業高等学校)、カタリナ(聖カタリナ女子高等学校)の三つの高校があり、生徒がたくさん通ります。朝夕は自転車が多く、マナーの悪い生徒もいるので危険です。」と**さんは話す。
 
 ウ 都心への回帰

 平成15年(2003年)に3,204人まで減少した人口は、同17年に3,602人とやや増加している。これは、近年都心部にマンションが次々と建設されたためで、同17年の分譲マンションの着工戸数は、バブル期以来の高水準となった。平成12年から17年に新築された松山市内の分譲マンション2,712戸のうち、番町、新玉、八坂、味酒、雄郡、道後、東雲といった中心地区は2,010戸にのぼり、74.1%を占めている。番町地区でも2000年代になってから、グランディア千舟(2001年85戸)、シティタワー松山(2005年102戸)などの大型マンションが次々に建設された。
 こういった都心部のマンション建設ブームの背景には、市内中心部の地価が下落したことに加え、企業や官公庁の所有地が売却され、格安の用地が出現したことがある(⑧)。都心部は、もともと通勤通学の利便性にすぐれ、デパートや専門店、総合病院もある便利な場所である。また一戸建てに比べ、マンションはセキュリティー面でもすぐれており、ファミリー層のほか、単身者や女性、高齢者の居住にも適している。このような要因から、都心への人々の回帰傾向が見え始めている。

図表2-2-10 番町地区の人口推移

図表2-2-10 番町地区の人口推移

松山市統計書から作成。

図表2-2-11 番町地区の人口ピラミッド

図表2-2-11 番町地区の人口ピラミッド

平成12年国勢調査結果から作成。