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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)変わる地域社会

 ア 生活の変化

 石井地区の生活の変化について、**さんは次のように話す。
 「昔は、ちょっとした身の回りのものは近所に雑貨商がいたので地域で買いました。衣料品は松山市内に行くか、森松商店街に買いに行きました。行商もよく来ました。2日か3日おきに松前から『おたたさん』が魚を売りに来ました。衣類や乾物も売りに来たし、富山の薬売りも来ました。
 ほとんどの農家は昭和40年代前半くらいまで、農耕用に牛を飼っていました。屋敷内には牛舎があり、糞(ふん)も肥料として利用しましたが、耕運機が普及してからいなくなりました(昭和20年代後半アメリカからメリーティラー〔小型耕運機〕が導入され、昭和42年には全国で300万台以上普及。)。
 大街道や湊町といった市内の繁華街へは、『城下に行ってこうわい。』と言い出かけました。石井地区でも東の方の人は、国道33号を通るバスや森松線をよく利用しましたが、西の方の人は県道松山伊予線を通るバスを利用しました。市内に近いので歩いたり自転車の利用も多かったです。
 近所にスーパーマーケットや病院が次々とできたので昔に比べると本当に便利になりました。現在うちの近所だけで眼科、内科、整形外科、歯科があります。」
 また、**さんは次のように話す。
 「昔は、各集落に1軒か2軒の店があり、味噌(みそ)や醤油(しょうゆ)をはじめ日常生活に必要なものは手に入れることができました。森松や石井駅の近くにも店があったので、そこにも買いに行きました。病院は、石井駅付近に何軒かありました。印象に残っているのは、高井(たかい)町の桑原病院(現松山リハビリテーション病院)の院長先生が白馬に乗って往診に来てくれたことです。父と友人であった関係で、私が風邪をひいて寝ていたとき、庭先に馬を繋(つな)いで診てくれました。産婦人科はなく、うちの兄弟は全員裏のおばあさんに取り上げてもらいました。
 米と麦を中心に専業農家をやってきましたが、現在は園芸農業が中心です。米も作っていますが、作れば作るほど損をします。水田地帯で米作りをやめたら日本の農家でないと思いますが、このへんでも米作りをやめる農家が出てきています。私が若いときは、米と麦を作るだけで子どもを上の学校にやることができましたが、今はできません。あっという間に農業は衰退しました。兼業農家や、農業をやめて勤める人が多くなり、現在、石井地区の専業農家は4、5戸しかないのではないでしょうか。農地を売りまとまったお金が入った人は、交際費が増えて生活が変わる場合も多く、国道沿いで商売を始めてもうまくいってないことが多いようです。
 このへんも昔に比べると便利になり、宅地化が進んでいます。昔は家を建てるとき、水のことを考えましたが、今は上水道をひくので関係ないようです。このへんは高速道路のインターチェンジに近いし、国道からちょっと入ると本当に静かです。スーパーマーケットや警察署、消防署もあり、学校も適度な距離にあるため、宅地の立地条件としては本当に良い場所らしいのです。」

 イ 増える転入者

 転入者について、**さんは次のように話す。
 「石井地区は昔から農業が中心で、勤め人は比較的少なかったのですが、都市化とともに転入してきた人はほとんど勤め人です。団地の人はほとんど勤め人ですし、古くからの農業集落も過半数が勤め人になりました。転入者のほとんどが松山市内からですが、早くに入ってきた人は上浮穴(かみうけな)出身の人が多いように思います。北土居町のように、あまり大きな団地がなく1戸建てがぽつりぽつり建ったところは、うまいこと転入者が地域に解けこめたように思います。転入者も隣組などの付き合いもきちんとするし、新旧住民がうまく解けあい人口が増えていき、気がついてみれば地の人より転入者のほうが多くなっていたように思います。大きな団地ができるとどうしても団地で一つの大きな自治会を作るので、地域に解けこむのは時間がかかったのではないでしょうか。
 転入者が多くなると、近所付きあいは昔ほど親密ではなくなったように思います。農業をするのにも気を遣います。昔は農薬を撒(ま)いたり、朝早く機械を使って作業をしていてもお互い様でしたが、転入者が増えると苦情も多くなりました。元々田んぼの中に家が建っていたのですが、今は宅地のほうが多くなり、農業優先と言えない時代となりました。」
 また、転入してきた**さんは次のように話す。
 「東石井団地に住んでいたころ、団地の住民は松山市内に勤めている人がほとんどで、松山平野一円から転入してきました。団地の住民で転勤がある人は出たり入ったりですが、転勤のない人はずっと住みつづけるため、高齢化が進んでいます。団地には独自に自治会があり、会費を集めていました。団地ができた当初は、東石井の町内会とは別の独立した自治会でした。しかし団地にはグラウンドがなく、みんなが集まって運動会とかの行事ができないため、昭和40年代に東石井の町内会に頼んで入れてもらいました。しかし、そのうち不満が出てきました。団地の人は団地内の自治会費を払っているから、東石井の町内会費も払うのはこらえてほしいと言うのです。団地では集めた自治会費の中から東石井の町内会費を支払っていましたが、地域の人が払う町内会費に比べると1人当たりの負担はずいぶん少なかったのです。これに対し地域の人から不満が出るのも無理はありません(県営東石井団地は平成16年度に東石井町内会から離脱した。石井地区の他の県営団地や市営団地などは、各地区の町内会には加入せず独自に自治会を組織し活動している。)。
 子どもたちは例外です。団地の子どもは転入当初から地域の子どもと同じ小学校に行くし、盆踊りなどの地域行事にも参加していました。子どもは町内会とは別に子ども会があり、子ども神輿は子ども会の運営です。現在、東石井に大人神輿はありますが、担ぐ人が高齢化してしまい台車に載せて引っ張っている状態です。石井地区では南に行くほど田畑も多いし、伝統的な地域行事も残っています。
 このへんに建てられた集合住宅の住民に共通していえることは、地域に対する帰属意識が薄いということです。町内会への加入を勧誘に行っても『私たちは単に寝に帰るだけだ。』と町内会に入ってくれない人が多くいます。町内会としては一応強力に入会を勧めますが、最終的に入会は自由です。最近になってやっと集合住宅の人も地域の活動にぼつぼつ参加してくれるようになりました。
 私も団地を出て一戸建て住宅に住むようになってから地域にかかわるようになりました。このあたりでは、町内会の組長や班長は一戸建て住宅に住む人に順番に役がまわされます。地域に30年40年住んでいても、集合住宅、借家に住んでいる人はなかなか役を引き受けてくれません。石井地区でも町内会によっては、地の人がずっと町内会長を務めているところも多いのですが、東石井は会長も副会長だった私も転入者でした。現在、町内会活動で熱心に動いている人には、転入してきた人がけっこう多くいます。地の人は高齢化し、その子どもや孫の代になると、転入してきた人と小学校のときから一緒に遊び、地の人、転入者という意識がないため、町内会活動も一緒に活動しやすくなっています。松山市と合併する前(昭和35年)の東石井地区の人口は600人余りしかいなかったのが、現在は6,000人近くになっています。こうなると地の人といっても少数派なのが現状です。」

 ウ 地域社会の変化

 地域にあった伝統行事の変化について、**さんは次のように話す。
 「新しい住民が地域の行事に入ってこれるかどうかは、人によっても違うし、行事によっても違いますが、土居町にはできるだけ新しい人も入れようという雰囲気があります。土居町には古くから『念仏講』というのがありますが、今では新しい住民も入っています。念仏講は春と秋の彼岸の年2回あります。念仏講は先祖を拝むだけでなく、地域のコミュニケーションの場でもあります。天山では『お大師講』という講が今も続けられており、隣り合って暮らす10軒ほどの家が月1回集まり、神仏に祈りをささげた後、食事をしながら語り合っています。
 土居町では亥の子や『お通夜(つや)』という行事が現在も続いています。亥の子は低学年はワラ亥の子、高学年は石亥の子で『ゴリンサン』と呼んでいます。石亥の子は、今は毛布を敷いて、その上でつきます。昔ゴリンサンは、当番になった家の床の間に次の年まで大切に飾られていましたが、今は公民館にしまったままです。『お通夜』の本来の意味は一晩中お堂にこもって健康や安全などお祈りをする行事で、今は子どもの行事として残っています。正月、五月、九月にやっていましたが、今は九月にやっているようです。お通夜も亥の子も、新しく入ってきた住民の子どもも一緒にしています。『虫送り』という子どもの行事もありましたが、昭和20年代の終わりになくなりました。地方祭のときは、子ども神輿や大人神輿、提灯(ちょうちん)行列もやっています。新しい住民にも神輿が好きな人がおり、今や新しい住民のほうが祭りに熱心かもしれません。
 『ほのぎ』(ごく狭い地域を示す地名。小字として村落を構成する基本地名だった。昭和45年松山市は市内全地域の小字を廃止した。)の名称が消えつつありますが、農家なら使うべきだと思っています。『ほのぎ』には歴史的背景や自然などが表されており、極端にいえばそこの生い立ちがわかる重要なものです。地域に住む者なら名前を覚えてほしいと思っています。新しい住民は『ほのぎ』はわかりませんが、農家の会のときにはできるだけ使って残そうと思っています。農家が古いものを守らないといけないと思います。しかし現在、石井地区の農家には、後継者が数えるほどしかいません。」