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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)岩木の小牛

 西予(せいよ)市宇和(うわ)町岩木(いわき)は宇和(うわ)盆地の西部にあり、標高約230m、家々は山を背負い前面に盆地部が広がるように分布している。純稲作地帯であるが、現在(平成18年)は兼業農家が多くなっている。
 ここでいう牛鬼とは、祭りのときに神輿の露払いとして出るだしもので、県内では菊間(きくま)の牛鬼を例外として、宇和島(うわじま)藩領とその周辺部に分布している。岩木の子どもたちが担う牛鬼を**さん(昭和23年生まれ)に聞いた。

 ア 三瓶神社の伝承

 「岩木には三瓶(みかめ)神社というのがあります。隣町の三瓶町の名を冠した神社です。昔、三瓶町に祭られていた三瓶神社の霊力により海難事故を免れた岩野(いわの)郷の秦権守春公(はたごんのかみはるきみ)という人物が、宇和の地に創建したのが始まりだそうです。その後幾たびか遷座して、弘化3年(1846年)から岩木常盤森(ときわのもり)に祀(まつ)られ現在にいたっています。この神社は、そんないきさつもあって50年に1回還幸祭といって三瓶町に出かけます。子ども牛鬼(写真2-1-18参照)はこの神社のもので、昭和61年(1986年)の還幸祭には神輿その他と一緒に三瓶町を練ったこともあります。三瓶神社の出し物は、三体の神輿、大人が担ぐ牛鬼(大牛といいます。)、中学生が担ぐ子ども牛鬼(小牛といいます。)、太鼓、ナガヤ(毛槍のこと)、小学生の女子がやる稚児、中学生の女子がやる浦安の舞、小学生の男子がやる甚句、厄年の男がやる猿田彦などで構成されています。」

 イ 牛鬼の運行

 「岩木、郷内(ごうない)、西山田(にしやまだ)、山田(やまだ)、小原(おばら)の五つの集落を総称して石城(いわき)地区と呼びますが、どの集落にも子ども牛鬼は出ていました。しかし、私が中学校3年生のときには山田と岩木にしか出ていませんでした。そして現在は岩木地区だけになっています。
 岩木のお祭りは私らのころは10月18日に決まっていました。しかし兼業農家が増えてきたためでしょうか、祝日の10月10日に変更されてこれがずっと続いていました。その後、神主さんの数が減ってきて、各地のお祭りを掛け持ちするようになったため、ここ5年間ほどは日を決めることができなくなって、神主さんとの相談で祭りの日を決定しています。今年(平成18年)は10月7日です。
 牛鬼は簡単な構造品でできていて、大牛も小牛も大きさが違うだけで同じです。鬼のような顔をした面の部分を頭(かしら)といい、これには頭を上げたり突き出したりして操るためのT字型の棒がついています。それに竹で作った胴体の部分をメゴ(写真2-1-19参照)といいます。さらにしっぽに当たる剣(けん)、メゴの中の担(か)き棒、メゴにかぶせる赤い布くらいが構造品です。このうち毎年作りかえるのはメゴだけでした。
 私らのとき牛鬼を担(か)いていたのは、中学校の3年生でした。男子だけですが20人近くいました。その者たちでメゴを作っていました。大人は牛鬼に詳しい人が一人いて要点を教えてもらうくらいでした。まず鋸(のこ)で竹伐(き)りにいきます。だいたいどこの家にも竹林くらいはありましたから、適当な家に頼んでモウソウチク(孟宗竹)をもらってくるのです。それを鉈(なた)でできるだけ作業がしやすいように5、6cm幅に割いていきます。当時の子どもたちは農作業も手伝っていましたし、これくらいの作業は簡単にやっていました。難しかったのはメゴの土台の楕円の部分を作るときです。担き棒は去年のがありますから、それで寸法をとって地面に楕円(だえん)を書き、それに杭(くい)を打って、それに合わせて竹を曲げます。楕円を一周するような竹はありませんから、前と後ろでつないでいました。大きく曲がる所には力が加わりますので、股(また)になった杭を打ち込んで止めていました。何本かの竹でこの土台ができると荒縄で止め、後は土台に竹を刺しながらメゴの背中部分を作ります。全体の形ができて、最後に土台の部分をわらで巻きながら雑談をするのが楽しかったです。できたという充実感もあったのだろうと思います。学校にも行きながらで完成までには1週間くらいかかっていました。
 祭りはいつも午後の1時に三瓶神社で始まります。神事の後、神輿(みこし)や牛鬼など勢揃(せいぞろ)いして御旅所まで御練りをし、そこでも神事があって浦安や甚句をやります。ところが牛鬼は大牛も小牛も、岩木の約160戸を、その年不幸があった家を除いてついて回る仕事がありました。つくというのは、窓などを開けてもらっているところへ牛鬼の頭を突っ込みワアーッと言いながらその家の厄落としをする動作です(口絵参照)。午後の甚句が済むのを待って始めたのではつき終わりません。だから朝の内にもついて回っていました。私が中学校の3年生で牛鬼を担(か)いたときはちょうど平日で、学校も昼からしか放課になりませんでした。それで前日の夕方に地区の端のつき始めるところまで小牛を持っていって、『明日はここからつき始めますのでよろしくお願いします。』と頼んでおいて、翌日はまだ暗かったですけれども午前4時半につき始めていました。時間が来たら中断して学校に行き、午後1時には三瓶神社に集まります。三瓶神社から御旅所までの御練りのときには、途中の家をついたり、集まった観衆の方へワアーッと言って近づいて脅かしたりしながら練っていきます。御旅所の行事が始まると、済むまで2時間ほどは牛鬼はそこで待っておかないといけません。だから済んでからまたついたのです(写真2-1-20参照)。同じ3年生同士で大将とかの役付けはありませんでしたが、ケイゴ(警護)というのはあって、担き棒で担いていると外が見えませんので、竹の棒でメゴを叩いて合図を送る役がいました。それと御祝儀を集める御祝儀持ちがいました。
 私のときはちょうど雨で、濡れた牛鬼がとんでもなく重くなって、最後までついて回れんかもしれんと思うくらいで、あんな重いものを担いた経験はその後も記憶にありません。御旅所では暴れないといけないのに、ようよう動いたくらいでした。それと怖かったのは大牛です。三瓶町では大牛と小牛は雄と雌なのだそうで、じゃれ合う演技があるそうです。ところが岩木の大牛は酒を飲んで担いているものですから、小牛にぶつかってきて田んぼに落とされたり、ひっくり返されたりしていました。近在でも岩木の牛鬼は荒れるのが評判だったそうですが、小牛に対しては弱い者いじめみたいなものでした。それに、狭い路地の奥にある家など、『ここでつかしてもらえまいか。』と広い所で頼むのに、どうしても家まで入れとからかわれて、無理して入ったのも思い出です。ついて回ると御祝儀としてお金をもらいました。これは牛鬼をついて回った者の権利で、後でみんなで分けていました。当時の金で一人2,000円くらいになったでしょうか。模型飛行機を買ったり、買い食いしたりで使ってしまったように思いますが、うれしかったですね。それに牛鬼を担くことは、たまたまつらい経験をしましたが、祭りが近づくに従ってワクワクして待った思い出があります。
 つき終わったら、村の烏頭八(うずや)様というお堂に行き、そこで解体して、メゴはその年限りの物ですからお堂の裏に放置して雨ざらしでした。それ以外の物は宿に持って行っていました。牛鬼の宿は、何代も跡継ぎの男の子ができなかった家に、ようやく男の子ができたために牛鬼の宿を奉納されたという民家にやってもらっていて、牛鬼の頭などメゴ以外の物を保管してもらっていました。」

 ウ 現在の牛鬼

 「現在の牛鬼の変化について話してみましょう。かつては中学校3年生だけで担(か)いていましたが、子どもの数が減ってくるに伴い中学生全員に広げられました。現在(平成18年)はそれでも足りませんので、石城小学校校区から有志を募って手助けをしてもらい、岩木の中をついて回るようになりました。それでもかなりな少人数でやっています。御祝儀は今なら分けても5,000円くらいにはなると思いますので、助けに来た生徒にも良い日当かも知れません。
 また祭りの日は毎年神主さんと諮って決めるようになったので、大体休みの日を選んでいますから、小牛が朝早くから出動しなければならないこともなくなりました。それに最近ではメゴも作りません。大人が5、6年前に軽くていいメゴを作り、しかも三瓶神社に倉庫ができて牛鬼を保管しておくことができるようになって、それを現在も出しては使っています。
 大人も子どもも人数が減ってきて、神輿は車で練り、小牛も他集落の手助けが必要になってきています。それでも三瓶神社の祭りが続いているのは、やはり三瓶神社を保存しようとする熱意と祭りを維持していかないと集落の活性化ができないという思いがみんなにあるからだと思います。」

写真2-1-18 子ども牛鬼の休憩

写真2-1-18 子ども牛鬼の休憩

西予市西宇和町岩木。平成18年10月撮影

写真2-1-19 メゴ

写真2-1-19 メゴ

西予市宇和町岩木。平成18年10月撮影

写真2-1-20 各戸を回る牛鬼

写真2-1-20 各戸を回る牛鬼

西予市宇和町岩木。平成18年10月撮影