データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)小鴨部のマンド

 今治(いまばり)市小鴨部(こかんべ)は、平成大合併までは玉川(たまがわ)町小鴨部、明治の中ごろまでは小鴨部村であった。旧今治市に隣接し蒼社川(そうじゃがわ)右岸に位置する農村地域で、稲作が主な産業であった。近年は、今治市の住宅地として農家以外の家も半数に上るようになったという。現在(平成18年)の世帯数は約220軒である。
 小鴨部では現在も子ども組が活躍しており、子ども組の活動と、マンドの行事を別に取り上げて説明する。

 ア 子ども組の活動

 かつての子ども組の経験者である**さん(昭和21年生まれ)、現在子ども組の大将である**さん(平成4年生まれ)に子ども組の活動について聞いた。
 「小鴨部には今も子ども組という組織が活動しています。昔の子ども組は、小学校4年生から中学校2年生までの男子で構成された子どもたちの集団で、子どもが多い時代でしたから、30~40人の人数はいました。この子ども組を束ねるのが大将で、中学校の2年生は全員大将でした。副大将は中学校1年生です。子ども組に入ったばかりの小学校4年生はシンテイといわれ特に厳しくしごかれました。中学校3年生は子ども組を卒業しますが、ノキ大将といわれ、行事のときには指導もしてくれる存在でした。高等学校1年生に当たる者はノキノキ大将といわれていました。昔(昭和30年代)の子どもはあまり勉強もしないし野放しみたいなもので、子ども組というのはガキ大将に率いられた集団みたいなもんでした。小学校4年生で切れているのは、あまり小さな子がいると子守をしなければならなくなるし、行事の遂行には足手まといだったからだろうと思います。
 現在(平成18年)の子ども組は小学校5年生から中学校2年生までの集団で、中学校2年生の一人が大将、一人が副大将です。全員で8人おります。いつからどうして小学校5年生になったのかは分かりません。子ども組の行事が現在まで伝えられているのは、地域の人々が子ども組の行事を子どもの教育の一環だと考えていることによろうかと思います。子どもたちだけが共同で行事を遂行することによって、子どもの自立心とか責任感とか、助け合いの精神をだれが教えなくても学んでいく場になっていると考えているからです。ただ、今後の問題点は子どもの人数が減ってきたことです。もう少し低学年から入ってもらうとか、女の子の加入も考えないといかんという意見が出始めています。
 今年(平成18年)の予定でみると、子ども組が主催する年中行事は、7月20日の百マンベ、8月14日のマンド、8月23日のお地蔵さん、8月26日のオツカサン、10月15日の祭りの子ども神輿(みこし)、11月6日の亥の子(ゴウリン[亥の子石]をつく)、11月23日の亥の子(ミカン配り)です。
 百マンベは虫送りです。昔は村のお堂のところでお祈りをしてもらって、笹竹にお札を付けてもらいます。その竹を持って、子ども組が、青竹で太鼓を担ぎ、手に鉦(かね)を持って、鉦をカンカンカン、太鼓をドンドンドンと打ち鳴らしながら、小鴨部中に網の目のように走る田んぼの中の道を走っていき、それぞれの田の虫追いをやったのです。歩いていたらしかられます。最後に蒼社川までいって笹つきの竹を川に捨てるんです。現在変わったところは、走る距離が短くなったことぐらいです。
 お地蔵さんとオツカサンは同じようなもので、地区のお地蔵さんやお堂を祀(まつ)る行事です。お堂を祀るオツカサンを例に取ると、子ども組が地区の各戸をまわり、『オツカサンのオトミを集めに来ました』といってオトミのお菓子やお金をもらって回ります。そのお金でろうそくやお菓子を買い足し、地区にあった二つのお堂でろうそくをあげて拝み、広いお堂の方では上に上がってお菓子を食べたり遊んだりしていた行事です。子どもたちがにぎやかにやれば、仏さんも喜ぶだろうということのようです。今はオトミとしてお金をもらうだけで、購入したろうそくを灯して拝めば終わりです。余ったお金は亥の子のときのミカン配りの行事の果物代に当てています。お地蔵さんはオツカサンのお堂のかわりにお地蔵さんを祀(まつ)る行事です。
 亥の子は、実施する日は異なっていますがゴウリンサン(亥の子石)をつく行事とミカン配りの行事がセットです。ゴウリンサンは男の子が生まれた家でつきます。昔は男の子が生まれた家を宿として御馳走(ごちそう)などを食べたり、そこで寝泊まりしたりしていました。子どもが生まれていない家ではゴウリンサンをつきませんが、ゴウリンサンの集め物は全戸から集めます。その集め物とオツカサンやお地蔵さんのときのお金でミカン配りのときに使うミカンやリンゴを買いに行きます。このときはたくさんですから親が手伝いますが、子どもの自主性を尊重するため口出しはしません。
 ミカン配りというのは、ゴウリンサンの宿で(今は公民館で)、子ども組の子らが、やってきた人々にミカンやリンゴなどの果物を袋に入れて配る行事です。果物を取りに来るのは、各戸一人と決まっていたわけではなく、来た人にはだれにでもあげていました。ただ、御高齢の方や千円以上頂いた家には子どもたちが持っていきます。昔はミカンやリンゴも珍しかったから、もらいに来る人が多かったですが、近年は大分減ってきています。」

 イ マンド

 『愛媛の祭りと民俗』は、小鴨部のマンドについて「『まんど』の行事は8月14日夜の『ムカエまんど』と、翌15日夜の『オクリまんど』からなる。どちらも行事のなかみは、大して変わらない。いわゆる盆の迎え火と送り火なのである。なお『まんど』は、漢字を宛(あ)てれば、『万灯』であろう。(⑥)」と記している。また、愛媛県史は同様の行事として周桑(しゅうそう)地方のセンドマンド、松山市難波地区のヒヤロなどをあげている(②)。マンドは旧玉川町だけでなく今治地方全域に分布していたが、思いがけない事故により、大半の所は中止された。小鴨部は中断することもなく現在(平成18年)も続けている。最近では再開する地区がぼつぼつ出始めているという。
 同じく**さんと**さんに話を聞いた。
 「マンド(写真2-1-6参照)は、毎年マンド山でやります。マンド山は山の中腹にある1畝(せ)(約99m²)少々の平坦地で、後方は一段高い小さな平地になっています。マンド山からは小鴨部の集落を見下ろせます。
 昔(昭和30年代)、実施されたのは8月14日、15日です。16日には後片づけを行っていました。今は8月14日だけです。昔は遅くまでやっていましたが、今は午後9時に終わりますので、その日の内に片付けます。
 昔のマンドを、順を追ってみてみましょう。マンド山はマンドのときだけ使うのですから、毎年使うころには草がぼうぼうに茂っています。まずこの草刈りが大仕事でした。昔は、子ども組の人数も多くて30人から多いときには40人くらいいましたから、総掛かりで学校が休みになったころから草を刈っていました。今の子と違って昔の子は鎌(かま)を使う要領は十分知っていました。それを済ませてから諸準備に取りかかりました。
 8月8日にはマンドの集め物をします。この辺りでは8月7日が七夕です。その翌日、子どもたちは七夕のお飾りを各戸から集め、そのとき、取ってもらっていた小麦わらも一緒に集めます。小麦わらはどうせ田んぼで燃やすいらないものです。小学校4年生の家は、今年シンテイだからとマンドに使う小麦を意識的に作付けしてもらっていました。七夕のお飾りは、当時、140戸ほどありましたが、全戸から集めていました。集め忘れた家があるとしかられていました。お飾りや小麦わらは小屋やサイト(柴灯)の材料になります。次いで竹伐(き)りがあります。マンド山がある山とは違う山へ1時間ほどかけて、鋸(のこ)や鉈(なた)で竹を伐りに行き、全員でガラガラ引きずり下ろして、またマンド山へ引きずり上げていました。やはり、小屋作りやサイトに使っていました。
 さらに別の日には、地区で借りた古いこんこ桶(おけ)(たくあんを漬ける桶)を四つも五つも担ぎ上げます。これに水を溜(た)めるのです。昔はマンド山の少し下の方に池がありました。そこの池にみんながバケツ二つずつ持って水汲(く)みです。古い桶なので、乾燥しすぎてたががゆるんでいるのか、水がいくらでも漏るのです。桶一杯にするには目が詰まるまで毎日少しずつ水を汲み上げる必要がありました。これが一番の重労働でした。さらに、マンド山は水道も飲み水もない所ですから、準備をしているときにも当日にも飲み水がいります。当時は井戸の時代で、どこそこの水が冷たいからといって1升も2升も入りそうな大きなヤカンをシンテイに持たせて汲みに行かせるんです。小学校4年生の子ではあるし、暑い盛りですぐには持って上がれません。上まで汲んできたら、生ぬるくなっている場合があります。そしたら『こんなもの飲めん。』言われて、もう一度汲みに行かされたりしていました。
 最後はマンド山の飾り付けです。昔はマンド山の周辺はほとんど松の木でした。今はマツクイムシにやられて松はなくなってしまいましたが、その松を使っていました。図表2-1-1のように、向かって右手奥に伐った赤松の木を1本立てます。立てる所に穴を掘り、何人もが掛かってロープで引っぱり起こすなどして立てていました。赤松の上の方には枝を残したままにしておきます。根元には松などの生木の柴(しば)を放射状にして積み上げます。赤松の前面にはやはり上の方の枝を残した3本の黒松を立てます。その黒松3本の間に生木の柴を積み上げます。これらの生木の柴は大将が一番多く作り、順次少なくしてシンテイも何把(わ)かは作ります。それを高く積み上げていました。当時の子はシンテイにいたるまで木に登ったりするのはそんなに苦にしていませんでした。どうしても柴が作れなければ家の人に頼んででも作っていました。大将の命令は絶対だったんです。
 向かって左方にはやはり上の方の枝を残した松9本を支柱にした小屋を作っていました。小屋の壁は伐ってきた竹や七夕のお飾りの竹で組み上げ、間を小麦のわらで隙間(すきま)がないように仕上げていました。さらに前方にはサイトを突き刺すため先のとがった竹の棒をまっすぐに立てた物を作ります。サイトは小麦わらの束を2か所くらいで括(くく)り、片方の先を折り曲げて作っていました。折り曲げるのは火をつけるときに便利だからです。これを1本の棒当たり50~60束くらい作って積んでおきます。これで準備は完了です。
 マンドの行事が動き始めるのはネコとネズミからです。7、8mもある大きな2本の竹の先に小麦わらをつるしたものを作って置いて、小麦わらに点火します。上級生の体格のいい二人が、後方の一段高いところでこの竹を振り回します。一人が大きく輪を描いて振ると、もう一方がそれを追いかけるように振るんです。横8の字に振ったり、上下に動かしたりする火だけを見ていると、ネコとネズミが追いかけっこしているように見える所から付いた名前だといいます。
 次はサイトの点火です。サイトは棒の先に突き刺されて、大将の『つけよ』のかけ声とともに、端から順次パッパッパッと点火していきます。1本のサイトには、一人の担当者がいて、火が終わりかけると腰に差している鎌でサイトを切り落とし、点火したサイトを突き刺します。下に切り落とされ、まだ燃えているサイトの屑(くず)は、長靴をはいて手拭(てぬぐ)いで覆面したシンテイたちが、箒(ほうき)みたいに先の方だけ葉を残したヒムロ(ネズミサシ)の木で叩(たた)き消すんです。ヒムロの木は燃えにくいんだそうです。早く消さないと山火事になったら大変ですから、シンテイたちもコマネズミのように動き回ります。シンテイの仕事はもう一つあって、点火している間中、上段の所にあった大きな松の枝に鉦(かね)を引っかけて、それをたたかねばなりません。カンカンカン、カンカンカンと小鴨部中に聞こえるように鉦をたたきます。サイトの火がとぎれたり、鉦の音がとぎれたりすると大将に叱られます。頃合(ころあ)いを見て大将が『消せ』の合図を送ると、また端から順に火が消されていきます。一区切り20分くらいだったでしょうか。しばらく休むとまた繰り返しで、4、5回やっていました。一方、赤松、黒松の根本に積んだ生木の柴(しば)は最初からくすぼらせています。天井に届くくらいな高さまで積んでおいて、燃えるに従ってだんだん上から落ちてくるようになっていました。これは煙を出すのが役目で、炎が出そうになったら水をかけたりして、煙るようにしていました。線香のような役割でした。
 小屋には子どもたちが寝泊まりしていました。遊んでいましたが、火の用心の意味もあったんだろうと思います。この小屋は二日目(15日)に燃やします。二日目も同じようにサイトを燃やして、午後8時半ころでしょうか、落ちた小麦わらや余ったサイトなどいろんなものを全部集めて小屋にいれ、小屋に点火します。ある程度燃えてからは3、4人ずつが固まって、四方から竹の棒で掻(か)き上げるんです。そうすると数mの火柱が立ちます。下の方で見ている人たちが、『おっ、上がった、上がった』と言っていました。
 翌16日は片付けです。立てていた木は燃えませんから、それは倒して適当な長さに切って、家で風呂(ふろ)やかまどで焚(た)くので、みんなで分担して持って帰っていました。
 準備から終わるまで、1週間くらいはマンド山で活動していました。たまにはけんかもしましたが、みんなで同じ目的に向かって汗を流して作業している間に、いつの間にか信頼関係が出来て仲良くなっていました。何十年かたった今でも懐かしい思い出として残っています。学校とか親には教えられない教育になったんじゃないでしょうか。
 現在(平成18年)はマンドもかなり変わりました。赤松・黒松や家を作ることはなくなりました。ネコとネズミももうやっていません。しかし、今も火を灯(とも)す作業は続けられています。マンド山の清掃は今治市の市民大清掃の日に、中学校2年生とその保護者及び手助けの地区の人たちでやっています。草刈り機ですから生徒は草を運ぶくらいが仕事です。直前の清掃は中学校2年生の保護者だけでやっています。竹は今はマンド山に近い場所でもらっています。中学生が竹を切り、小学生が運ぶ手はずでやっています。消火用の水はポンプで上げますし、飲料水は大人がペットボトルの飲料を準備してくれています。サイトは小麦わらを使うのはもう止めて、竹の筒に灯油を入れ、タオルを芯(しん)に入れて作っています。点火はサイトの背が高いので、中学生が火を灯します。鉦(かね)をたたくのは小学生の役割で、サイトの点火が行われる午後6時から終了する午後9時まで交代でたたき続けられます。七夕飾りを集めるのは今も続けられていますが、小屋を作らなくなりましたから、サイトとは別に燃やすのに使っています(写真2-1-8参照)。8本のサイトのほかに大きく炎を上げているのは中学生が燃やすこの七夕飾りの炎です。」
 大将**さんは「しんどいと思う面もありますが、こうしていろんな行事をやっていく中で、学年が違う者同士と遊んだり、一つの仕事にみんなで取りかかったりするのは楽しくもあります。それに、祭りのときに年齢に応じて、みんなにお小遣いをもらえるのがうれしいです。」と話す。

写真2-1-6 マンド全景

写真2-1-6 マンド全景

今治市小鴨部。平成18年8月撮影

図表2-1-1 マンド山見取り図

図表2-1-1 マンド山見取り図

**さんからの聞き取りにより作成

写真2-1-8 七夕飾りを燃やす

写真2-1-8 七夕飾りを燃やす

今治市小鴨部。平成18年8月撮影