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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(5)地域の中の子どもたち

 「私が通っていた当時の松蔭小学校は、全校児童が2,000人くらいいました(昭和22年1,940名)。当時は講堂がなかったため、入学式は運動場でやりましたが、校長先生の講話の後、みんなで八幡神社に参拝に行きました。市内の学校では、入学式や卒業式など何か式典があると毎回八幡神社に参拝しました。松蔭小学校は2,000人もいたので、参拝するだけで半日はつぶれました。ラジオ体操は松蔭小学校でやりましたが、子どもだけではなく、近所の大人も一緒でした。
 うちは農家だったので、小学校3年生ころから家の手伝いをしました。学校から帰ると、土間か板の間にチョークで『山に来い』と書いてあり、段畑でイモや麦を運ぶ手伝いをしました。2年生までは、かぎを持たせてもらえなかったので、親が帰るまで外で遊んでいました。5年生になると、『イモを蒸しておけ』とか『御飯を炊いておけ』といった書き置きもあり、井戸で水を汲(く)み、釜(かま)で火を使うようになりました。当時は、農家の子はもちろん、商家の子もみんな家の手伝いをよくやりました。
 街中で子どもがやる年中行事は、亥の子ぐらいでした。亥の子石には鉄の鉢巻き、鎖がつけてあり、それにロープをかけて引っ張り、鉄輪が『ガシャン、ガシャン』と音がでるようにつきました。亥の子に中学生は参加せず、小学校の高学年が大将でやりました。主に自分の地域を回りましたが、最初のころはフリーだったので、よその地域のお金をくれそうな家(店)も回りました。当時は舗装されてなかったので、商店街の路上で亥の子をつくことができました。店の人にお願いし、亥の子をつかせてもらいますが、他の地域の子も次々と来るので、断られることもありました。亥の子は、ついた地面が深く掘られるほど『小金がたまる』と喜ばれました。舗装されてからは、道路が痛まないようにゴムを敷いたり、石にゴムを巻いたりしてやっていたようです。折箱屋さんから手ごろな丸太をもらい、それに鎖をつけ亥の子石の代わりについたこともあります。木でつくと『こーん、こーん』と音がするだけで、地面は痛みませんでした。亥の子でもらったお金は、子ども大将が中心になってみんなで分けましたが、決まった小遣いのない当時の子どもにとって亥の子は収入のあるありがたい年中行事でした。昭和30年代になると、よその地域に行くことは学校で禁止になり、分区の範囲内だけでするようになりました。当時歌った亥の子の歌は、次の通りです。
 『一で俵ふんまえて 二でにっこり笑うて 三で酒を造って 四つ世の中よいように 五ついつもの如くなり 六つ無病息災に 七つ何事ないように 八つ屋敷を建て広げ 九つ小倉を建て並べ 十で取って納めた。めでたいな めでたいな』 
 現在秋のお祭りは、分区ごとに子ども神輿(みこし)があり、大人のリードで分区内を回っていますが、私が子どものころにはありませんでした(神輿ができるのは昭和40年ころ)。鹿踊りも盆飯も街中にはなく、神輿も牛鬼(うしおに)も昔は全部大人の年中行事で、子どもはそれについて回るぐらいでした。」