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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)昭和20~30年代の三津と子どもの遊び場

 「当時は風呂のある家が少なかったため、三津には銭湯が10か所くらいありました。永楽座(えいらくざ)(明治期に創立)や柳勢座(りゅうせいざ)という芝居小屋がありましたが、当時は映画館になっていました。電気館(大正期に開館)は最初から映画館でした。当時若者の間でダンスが流行しており、三津にはオアシス(女子師範学校の東)や丸山(三津浜小学校の北)などのダンスホールがありました。末広温泉は木造2階建てで、1階は温泉、2階は芝居をやっていました。厳島(いつくしま)神社のすぐ横にあった三津浜東劇では映画もやっていました。当時は各町に1か所くらい一文店(いちもんみせ)(駄菓子や玩具を売る小さな店)がありました。小学校の正門前には、『こんこ屋』、通町(とおりまち)には『名村』、久宝町(きゅうほうまち)には『たーさ店』と呼んだ一文店がありました。子どもの小遣いは、昭和30年代で1日5円くらいでした。
 終戦間もないころおやつはなく、蒸したイモかカンコロ餅(もち)(甘古呂餅:サツマイモの切り干しを粉末にして作ったイモの団子(だんご))があれば良い方でした。イモづるのデンプンから作った黒いパンもありました。昭和26、27年ころになると駄菓子屋でお菓子も売っていましたが、そんなに種類はありませんでした。戦前から紙芝居やぎょうせん飴(あめ)のおじさんは自転車でやって来ましたが、昭和30年代からはロバのパン屋も来ました。焼きイモ屋は、大きな陶器の壷(つぼ)の中に炭を入れ、S字型の針金にイモを刺し周囲にぶら下げて焼いていました。壷の上に陶器の入れ物(歯釜(はがま))があり、焼けたイモはその中に入れて保温していました。定秋寺(ていしゅうじ)の交差点北角や小学校の正門前、役場の入り口などあちこちに焼きイモ屋がありましたが、昭和40年代半ばにはなくなりました。
 三津の街は1キロ四方くらいに家屋が密集し、空き地がほとんどないため、碁盤の目のように走っていた『せこ』(三津では路地をせこという。)が子どもの遊び場になりました。子どもが多かったので、外に出たらすぐに何人かの仲間に出会いました。路地では鬼ごっこや影ふみ、缶けつり(缶けり)などをやりました。家の前の路地に置いてある縁台でよく将棋(本将棋、はさみや歩回(ふまわ)り、山崩し)をしましたが、女の子はおはじきやおじゃみ(お手玉)、シャボン玉で遊びました。
 現在国土交通省の港湾事務所がある所にL字型の石積みの防波堤があり、ここから大可賀(おおかが)の埋立地までが三津浜海水浴場でした。江戸末期に砲台が築かれていたことから『お台場(だいば)』と呼ばれ、三津の子どもはほとんどがここで泳ぎましたが、昭和30年代に埋め立てられてしまいました。男の子は、小学校5、6年生はふんどし、それより小さな子はサポーター(陰部を三角の布で覆うだけの簡単なふんどし)をはいて泳ぎました。当時子どもの水着は自家製で、女の子は着物をほどいて作ったシュミーズのような水着を着ました。お台場に近い三津浜小学校が開放されていたので、海水浴の後、小学校で体を洗ってから家に帰りました。海に近い男の子は、家から水着のまま泳ぎに行きましたが、女の子は小学校で着替えて帰りました。三津の子どもは一部の女の子を除いて、小学校低学年でほとんどの子が泳げるようになったと思います。
 三津浜競馬場(昭和4年~30年の間、現在の春美(はるみ)町あたりにあった。)の北を流れる小川があり、そこでフナやメダカ、トンボなどをとりました。川に入るとヒルによく血を吸われました。少年院(昭和28年〔1953年〕開設)や千本地蔵(せんぼんじぞう)さんの近くの川ではシジミ、ドジョウ、ナマズがとれました。
 現在の松江(まつえ)橋のすぐ南に一本橋(石橋)と堰(せき)(水門)がありました。このあたりは『ドンドラ』と呼ばれ、よく川遊びや釣りに出かけました。ドンドラから三本柳(さんぼんやなぎ)あたりまでにはフナやウナギ、ナマズもいました。水門から上流は少し深かったので、水に浸かり遊ぶことができましたが、深みにはまりおぼれた子もおり、ドンドラの堰には行くなと親に言われたことがあります。
 細い竹に木綿糸と釣り針をつけ、米粒をエサ代わりにして内港にたらすとドンコがよく釣れました。渡しの所ではアサリがよくとれましたが、油臭かったです。内港に停泊している機帆船の伝馬船や、貸し船屋の船を借り、海に出て遊びました。交替で櫓(ろ)を漕(こ)ぎ梅津寺に遊びに行きましたが、沖に出ると流され子どもの力では帰ってこれなくなるので沖には出ませんでした。私(**さん)は小学校3年生のとき、内港で一人船に乗せられ、岸から離されたことがあります。まだ櫓を漕げなかったため船が思うように動かず、くるくる回っていましたが、2時間位で漕げるようになり、どうにか岸にたどり着くことができました。櫓を漕げるようになるための一つの試練でした。三津の男の子は内港でよく遊んだので、櫓を漕げる子は多かったです。当時三津の渡しは櫓だったので、頼んでよく櫓を漕がしてもらいました。三津の子は渡しに乗って港山(みなとやま)や梅津寺によく遊びに行きました。
 三津浜小学校の運動場も子どもの遊び場でした。小学校には樹木がたくさんあったのでセミとりもできたし、講堂では卓球をしました。付属の子は女子師範の講堂で卓球をしました。お台場海水浴場と女子師範の間に大きなグラウンド(三津浜体育会が大正11年〔1922年〕に建設した3,500坪のグラウンド)がありましたが、戦時中は大部分が畑になっていました。畑でない所も雑草だらけで虫がたくさんおり、グラウンドの北東隅あたりの沼地ではトンボがよくとれました。」