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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(5)地域の中の子どもたち

 「昔は近所に『怖いおいさん』がいました。いろいろな大人が子どもを見ており、悪いことをすると怒られました。しかし一番怖かったのは父親で、押し入れや倉庫に閉じ込められたり、ものさしでたたかれもしました。遊んでいても晩御飯どきになると子どもは家に帰りました。お腹が減るのもありますが、遅くなると親に怒られるので急いで帰りました。時報をしらせるサイレンがお城の角にありましたが、夏と冬でサイレンの鳴る時刻は違っており、夏は夕方6時で冬は5時だったと思います。後に時報は市庁舎のミュージックサイレンにかわりました。
 銭湯も子どもの遊び場でしたが、ここにも『めんどいおいさん』がいました。お湯が熱いので、水を入れたりすると『だれが水入れたんぞ』といって怒られました。『めんどいおいさん』が入ってくると、子どもは脱衣所に場所を移して遊び、いなくなってから再び風呂(ふろ)場に入って遊びました。
 亥の子は、昭和20年代はありましたが、昭和30年代にはなくなりました。商店街中央の車道は早くから舗装されたため、亥の子をつくのに弱りましたが、両側の歩道に40センチ角くらいのブロックが敷き詰められており、これを1枚めくって地面を出し、ここで亥の子をつきました。それもできなくなると道路に亥の子石を置き、石を中心にひもを持ってぐるぐる回りました。亥の子がなくなると小遣いが稼げないので、子どもにとっては一大事でした。」
 **さんの新町3丁目は、10月10日にあった港祭り(昭和30年から平成9年まで開催)に家族総出で仮装行列などに加わった。商店街対抗であり、当時は子どもが多かったため、かなりにぎやかだった。町内会で大人と子どもが一緒に花見や海水浴にも行っていた時代である。
 小学校高学年になると家の手伝いをし始めた。**さんは店の商品の値段付けを手伝ったし、家がガラス屋だった**さんは、1人でガラスを入れにあちこちに行かされた。家が食堂の**さんは中学生のとき、昼食を食べに家に帰ると食堂の手伝いをしなければならなかった。
 **さんは、「**さんが子どものころは、街の子と在の子とでは、けっこう経済力に差があったように思う。在の子は月に1回ぐらい親に連れられ街に出てきて、おいしいものを食べ、小遣いでものを買って帰るのを楽しみにしていた。街の子は、家の手伝いをしてけっこう小遣いをもらっており、日常的に買い食いができたし、親が時々食べにも連れて行ってくれた。高度経済成長期までは、街の方が経済的に裕福だったのではないか。」と話す。
 今治では学習塾は「勉強屋」と呼んでいた。**さんは数学、国語、英語の勉強屋に通ったが、中学生のときには、学校の国語の先生が家庭教師として家に教えに来てくれていたという。勉強屋でも宿題がけっこう出たので忙しかった。**さんは小学校4年生のとき、勉強屋、そろばん、習字、剣道に行っており、週に3日は塾のはしごをしないといけなかった。今治は教育熱が高く、親は教育のためのお金を惜しまないような風潮があった。「あまり教育に力を入れすぎたものだから、商店街の子は優秀になりすぎて、東京や大阪の大学に行ったまま帰ってこなくなり、後継者不足に悩まされることになった。今治は他の都市に比べ紡績工場など女性の働く場所が多く、各家の所得が高かったため、これを教育に使ったのではないだろうか。」と**さんは語る。