データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)宇和島市戸島

 戸島(とじま)は、宇和島市の市街地西方約18㎞の宇和海に浮かぶ面積2.41km²の島である。地名の由来は、大正2年(1913年)の『戸島村誌』によると、古くは渡島と称していたのを戸口の増加により戸島と改称したという。島の最高点は標高190m、地形は全体に急峻(きゅうしゅん)で、平坦地はほとんどない。集落は島の南岸の季節風を避ける地点に本浦(ほんうら)と小内浦(こじうら)があり、北岸には嘉(か)島の枝浦の郡(こおり)がある(①)。
 明治以降の島民の生業は漁業を中心にするかたわら、段畑を開墾し農業を営んでいたが、現在段畑の面影はない。現在の漁業はハマチ、タイ養殖が中心で、マル戸ブリとして全国に有名である。
 戸島の世帯数と人口については、昭和50年(1975年)の世帯数308、人口1,038人、平成18年(2006年)の世帯数229、人口623人である。
 老人会の**さん(昭和4年生まれ)、**さん(大正15年生まれ)、**さん(大正10年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)に聞いた。

 ア 子ども牛鬼

 「戸島には本浦(ほんうら)・小内浦(こじうら)・郡(こおり)の集落があります。私たちの住んでいるこの本浦地区が戸島最大の集落で本浦・池田(いけだ)・向(むかい)・美砂子(びしゃご)に分かれています。本浦が戸島の中心集落です。子どものころの思い出に残っている行事といえば、お祭りとお盆に一部子どもだけで実施できる行事があり、待ち遠しかったです。ふだん食べられない御馳走(ごちそう)があったのも理由の一つです。
 菅原道真公をお祭りする天満(てんまん)神社が、本浦地区東の城ノ山(じょうのやま)に建てられていて、お祭りは、10月9日に実施され、その天満宮のお祭りは江戸期の天保年間(1830年~1844年)から続いているといわれています。
 お祭りには20歳までの青年は神輿(みこし)を担ぎ、子どもは牛鬼を担いでいました。本来の牛鬼の役割は、神輿の進行をさまたげる役割があったようです。この牛鬼は以前は子どもたちが作り、小学校3年生ぐらいから高等科の1年生までが牛鬼を担いでいました。この牛鬼を作るために子どもたちは沖にある遠戸島(とおとじま)まで竹を切りに行って牛鬼を毎年新調していました。それも昭和30年代ぐらいまでだったと思います。現在は毎年同じ物を使っています。お祭りが本浦地区の天満神社のお祭りですから、本浦の子どもしか牛鬼を担ぐことが出来ませんでした。同じ氏子であった隣の美砂子(びしゃご)、向(むかい)の集落の子どもは入れてもらえませんでした。
 昭和20年代末ぐらいまではこのような仕来りが続いていました。牛鬼を担ぐのに30人位が牛鬼の中に入っていました。今は少子化で子どもがおりません。現在、戸島小学校の生徒数18名ですから全集落の子どもでも足りないぐらいです。中学が宇和海(うわうみ)中学校に統合してからは島に中学生がいませんから、祭りには帰らせていました。祭りが終わりますと、次の学校の休日の日に『頭入(かしらい)れ』といって、本浦地区(美砂子、向井を含む)の一軒一軒を牛鬼の頭を持って訪ねます。このときにそれぞれの家庭からいくばくかの謝礼をもらいます。これが子どもたちの稼ぎになるのです。」

 イ お盆のジャと浜飯

 「お盆は、旧暦の7月13日から16日の4日間で、現在は8月13日から15日の3日間になっています。お盆を迎えた島は、農業や漁業などすべての仕事を休み祖先の供養の行事を行います。その中に龍集寺(りゅうしゅうじ)境内で老若男女が自由に参加する15日の夜に実施する盆踊りがあります。その最中に、現在はなくなりましたが子どもたちの担ぐ『ジャ(蛇)』といわれる一団が踊りの周囲を駆け抜けます。これは『ジャ』とよぶ蛇か龍を形どった麦わらと竹を組んだ手作りの台座のようなものを4人から8人の子どもが先頭で担ぎ、その後へ数十人の子どもがそれぞれ『子どもジャ』を担いで続きます。先頭から後に行くに従って形が小さくなるんです。先頭の台座は蛇か龍が大きく口を開けた頭部に見立て、麦わらやカヤ、竹を材料として組み、なるべく新しい卒塔婆(そとば)を2本お墓から取ってきて、頭部の位置に差して耳を表し、目は昔のがん灯(又は提灯(ちょうちん))をつけて、そこにロウソクをともしていました。卒塔婆はお墓にあるのを無断で盗(と)ってきて使うのですから和尚に大目玉を食っていました。
 これを肩に担いだ『ジャ』と呼ばれる子どもたちの一団の大将(大将は高等科1年で子ども相撲が1番強い子ども)が、ほら貝を吹き鳴らしながら大人の踊りの外側を走りまわるのです。その走る姿は、あたかも大蛇か龍のような動きでした。何故かわかりませんが、祖先の供養踊りの場を聖域にするために、寄ってくる邪気や悪霊を退散させるものであったのではないでしょうか。龍集寺の境内で8月15日に追善供養踊りが行われていて老若男女、大勢の人が参加していました。終戦後もしばらくはあったのを記憶しています。盆踊りだけは現在も続いています。
 昭和30年代のころまで、盆の3日間は漁を休んでいました。昔は現在のような岸壁ではありませんでしたから船を皆海岸に引き上げます。その中でも多少大型の船にテントやむしろ、大漁旗を張って屋形を作って、子どもたちがそこで親と離れて盆の3日間ぐらいは寝起きをしていました。
 14日の朝にそれぞれグループを作って浜でかまどを作ったり、船のかまどで材料を持ち寄り御飯を作り、それを浜飯とか盆飯とかいっていました。戦前は男だけの行事でした。グループでのけんかなどはありませんでしたが、釜の煤(すす)を寝ている子につけるなどの悪戯(いたずら)はしていました。これも子どもの楽しみでした。カボチャと豆腐がおかずで白飯が楽しみでした。米飯が食べられるのは正月と盆と祭りぐらいでしたから、これを『夏飯(なつめし)』といって食べると夏やせせず、病気にもかからず元気に過ごせるといわれました。昭和30年代のころまではあったと思います。」

 ウ お伊勢踊りと白飯

 「子どもだけのお伊勢(いせ)踊りという踊りがありました。これは宇和島市の指定無形民俗文化財(昭和52年11月3日指定)にもなっています。
 これは伊勢神宮ゆかりの神社の祭りで伊勢信仰にかかわるものです。本浦のお伊勢踊りは、3月11日の皇大神宮(こうたいじんぐう)の春祭りに、氏神(天満神社)と皇大神宮前で踊ります。以前は大勢の子どもがいましたので、男の子32名が定員になっていました。現在では女の子も入れて、幼児から小学校6年生までの全員が法被(はっぴ)を着、美しい花房のついた笠をかぶり、手に御幣(ごへい)とサカキの小枝を持って、太鼓に合わせて歌いながら踊ります。昭和40年代から女の子が参加し始めたと思います。花笠は自治会役員が作る手作りです。踊りは単純で素朴な踊りです。踊り子に弁当を作るためにお米をもらい、それを炊(た)いてもらって弁当にしていました。白米がめったに食べられない時期ですから、それは子どもにとって御馳走でした。これもこのような話が残っています。それは米をもらった子どもは自分の家で炊いてもらって弁当を持ってきてもらいます。踊りの最中に弁当が届いた、届かないが気になって子どもたちが踊りに熱が入らないことがしばしばあったそうです。そこで自治会が現在では全員に一斉に弁当を世話するようになりました。お祭、盆踊り、お伊勢踊りは男の子の出番があった遊びであり行事でした。お伊勢踊りの翌日には自治会主催の『漁事祈禱(りょうじきとう)』を行い船に乗って港周辺の漁場を周り大漁と漁の安全を祈願していました。」

 エ 家庭での手伝い

 「家庭での子どもの役割はいろいろありましたが、農繁期になると、就学していない自分の弟や妹を現在の船着き場のところの小学校に、2年ほど連れて通学したことがあります。
 イモ植えの手伝い、麦刈りの手伝いは、ピラミッドのような段畑で、狭いうえに行くのも大変、作業するのも大変でした。
 イモ掘りは子どもにはあまりさせてくれませんでした。それはイモを傷つけると保存が出来ないからです。つる切りぐらいはさせてくれていました。イモを掘るときも尻を山のほうに向けて掘るように親に厳しく言われました。土を下へ落とさないようにかき上げるように掘ることが段畑の維持には欠かせないことでした。イモつぼは山に掘ってカヤで屋根を作って保存していました。段畑ですから掘ったイモすべてを家に持ち帰るのは大変なことでした。
 麦刈りなども畑の中にはなかなか入れてくれませんでした。子どもは麦わらを家に持って帰るか、弟や妹の面倒を見るのが主で、労働力としては期待されていなかったと思います。畑は狭いし、麦のあとはすぐイモを植えますから、子どもが畑に入ると踏み固めて後の手入れが大変だったからだと思います。
 子どもが山に燃料をとりに行くということはあまりありませんでした。山は頂上まで畑になっていましたから燃料にする木が多くありませんでした。燃料は他所(よそ)から買っていました。
 水は共同井戸がありました。子どもが汲(く)みに行くことはあまりなかったと思います。大部分の井戸は塩分が混じっていました。男は朝早く漁に出ていましたから、水汲みに行くのは女性の仕事で大変だったと思います。男が担い仕事をするのは下肥を畑まで上げるぐらいでした。」

 オ さまざまな遊び

 「昭和40年ころまではひな節句は旧暦で実施していて3月3日でした。その日に男の子は、山に竹で囲いを作って陣地を作り、そこに万国旗を自分たちで作って漁業用のロープなどで張りめぐらせていました。仲間同士がそのような陣地を作ってお互いの陣地を誇示していました。そして浜へ行って磯遊びをしていました。その時期は大潮で、磯は潮が引いてよい遊び場でした。昼になれば山へ戻って御飯を食べるという風でした。
 遊びそのものは、山でのターザンごっこ、冬、学校で盛んにやった馬乗り、一年じゅうの遊びであったネンガリがありました。これは木でしていました。その他、ラムネをやるかとかパンをやるとかありました。ラムネは、ビー玉遊びのことで、パンはパッチンのことです。パッチンは既製品を持ってきてやる子どもはすぐ取られてしまって泣きべそかいていました。たいていの子どもは既製品など買う余裕がありませんから、はがきを使ってしていました。これも郵便局を通した使用済みのはがきでないと寄せてくれませんでした。絵はがきはダメでした。その作り方も、1枚折りは1枚のはがきを半分に切って1枚のパンを作るのと、2枚折りは、はがき2枚を使って1枚折って作るものです。勝負するときは同じ大きさのものでやるのがルールでした。ボールを使って遊ぶなどは広い土地もありませんし、ボールそのものがありませんでしたからあまり記憶にありません。
 夏は海(写真1-2-9参照)での泳ぎが主ですが、これも単なる泳ぎだけでなく、よく貝をとったりタコを捕まえたりしました。宇和島からの定期船がありましたが、それに乗り込んで出発するときに飛び込んで逃げては、乗組員にはよく怒られたものでした。
 家の中での遊びは、すり鉢の中での『さい銭ころばし』がありました。古銭をすり鉢でころばして重なれば取れる遊びです。しかし家は小さいですから、子どもが家の中で遊ぶような場所はありませんでしたので、男の子も女の子も家の中での遊びはあまりなかったです。
 『宝引き』という遊びをしていましたが、これは糸の先にお金をつけていて端を引っ張ってお金を当てる遊びでした。お金といっても昔のお金です。」

 カ 昭和10年前後の女の子

 お大師講に集まっていた女性の**さん(大正8年生まれ)、**さん(大正8年生まれ)、**さん(大正13年生まれ)、**さん(大正14年生まれ)に聞いた。
 「子どものころの行事は男の子が中心で、女の子に対しては神様ごとは厳しかったです。お祭りなど女性は出してもらえませんでした。牛鬼も、お伊勢踊りも男の子だけでした。なぜ、神様は女の子を寄せてくれないんだろうと子ども心に思っていました。しかし、盆踊りには踊り手で出してもらっていました。
 ひな節句のときに山へ弁当を持って行って食べる場所を男の子と争ったりしたこともありました。その場所に竹を立てたり、小屋のようなものを作ってそこで弁当を食べていました。
 夏は泳ぎに行きますが、泳ぐときはパンツやズロースで泳いでいました。水着などという気の利いたものはありませんでした。潜ってきれいな石をとったり、貝をとったりしていました。家で食べるような貝をとるまでには至りませんでした。
 正月やお祭りは御馳走があって、ちょっといい着物が着れて楽しみでしたし、正月明けや盆の後、皇大神宮春祭りなど年三回、田舎芝居とかドサ回り芝居とかいわれる地方巡業の芝居が来ていましたが、そのときは豆入りを作ったり御馳走をして持っていきました。そのときは2日、3日前からわくわくしていました。昭和40年代初めぐらいまではその芝居はありました。
 家の手伝いは、農繁期には女の子でも段畑で作ったイモを家に持って帰ったり、イモつぼまで運んだり、麦の収穫のときは麦こぎの手伝いをしたりしました。
 学校が休みのときなどは母親が仕事に行っている畑まで弁当を届けによく行っていました。畑は山の上のほうで遠いのと段畑ですから急な坂なので大変な思いをしました。
 女の子は妹や弟がいれば、子守をするのが主な仕事でした。それから夏は御飯を吊(つ)り小笊(じょうけ)(一種の竹かご)に移して使っていましたから、御飯が終わるとそれを洗うのが女の子の役目でした。洗うのは海で洗っていましたので、夏は泳ぎに行きたいからその仕事は率先してしていました。海の中に石を重石にして吊り小笊を沈めておいて、途中で洗って海岸に干して置けばよかったのです。
 両親が忙しいときには、就学前の妹や弟を学校に連れて行って授業を受けていました。弟や妹が泣き出すと廊下に出なくてはなりませんから勉強どころではありません。兄弟が多かったのでしょっちゅう学校に連れて行っていました。特に長女は皆家庭のことをさせられていました。女の子には家庭内のことを、あれしとけ、これしとけと母親によく言われ、それが終わらないと遊びにいけませんでした。
 遊びはいろいろな遊びがありましたが、男の子と一緒にしたのはかくれんぼぐらいです。遊ぶところがありませんからお寺やお宮の周りでしていました。その他、あやとりや天ちゃん(お手玉)、貝ころばし、竹取り遊びなどがありました。貝ころばしは、サザエの貝のふたを大きな松の木に当てて、それを次の人が打って当てて取るラムネみたいな遊びでした。この貝のふたや古銭をすり鉢の中で転ばして遊ぶ遊び方をしたこともあります。すり鉢のそこで重なれば取ることができるもので、これは金(かね)ころばしと言っていました。
 竹取り遊びが女の子の間で盛んに遊ばれたことがあります。それは割り箸(ばし)くらいの長さで1cmぐらいの幅の竹で、それを取り合いする遊びがありました。何人かで片手で持てるぐらいの束の竹をパッと離して、次の人がそれをすべて倒さないでつかむことが出来ればその中から1本取れる。そして次の人に同じようにしていく遊びでした。
 おやつはサツマイモはいくらでもありますから、ヒガシヤマ(蒸したサツマイモを切って乾燥させたもの)はよく作っていました。これを弁当の代わりに持ってくる子もいました。糯米(もちごめ)の餅(もち)は正月とお節句で、他の行事でつく餅は糯麦(もちむぎ)が多かったと思います。とにかく女の子は家の手伝いを言いつけられました。」

写真1-2-9 子どもたちの夏の遊び場

写真1-2-9 子どもたちの夏の遊び場

宇和島市戸島。平成18年10月撮影