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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)宇和海北部の住まいとくらし

 保内町の海域は、佐田岬(さだみさき)半島によって北は瀬戸内海側の伊予灘と南は宇和海側に分かれている。川之石は宇和海側にあり天然の良港に恵まれ、藩政時代から漁業が盛んであったといわれる。川之石湾に面している集落の楠町・赤網代(あかあじろ)・内之浦(うちのうら)・雨井(あまい)・西町(にしまち)は山地が海岸まで迫り、平坦地が少ない。そのため埋め立てが行われ、和田(わだ)新田、向(むかい)新田、沖(おき)新田、楠浜(くすはま)新田などの名前が残っている。産業では藩政時代からハゼ栽培や海運業が盛んになり、明治時代には鉱業・海運業・紡績業などが発達し、明治11年(1878年)には県下で初めての第29国立銀行が設立され、明治22年(1889年)には四国最初の宇和紡績工場が操業を始め、経済的に発展した(⑧)。
 川之石で漁家の10人兄弟の長男として生まれ、川之石で育った**さん(八幡浜市保内町 昭和5年生まれ)**さん(昭和8年生まれ)夫妻に聞いた。

 ア 網元の住まいとくらし

 「私の家は(図表2-3-14参照)川之石の楠町にありました。今は埋め立てられていますが、家の前までが海でした。私の家はもともと漁師で、戦前は打瀬(うたせ)漁(風力によって船を横に向け移動させ、網を海底で引き回して網揚げする漁法)の網元で、屋号は岩丸(いわまる)といっていました。
 太平洋戦争中に打瀬舟は軍に徴用されていましたが、戦後払い下げられてから昭和24年(1949年)くらいまでは打瀬舟で漁をしていました。打瀬の漁期は4月~9月でした。
 私の家は網元でしたから、かなり大きな家でした。道路が東側にあり、そこが入口で西の海に面したところに台所がありました。台所に2階はありません。入口から土間、板の間合わせて12畳の部屋があり、その部屋の南西隅上にエビス様を祭った縁起棚がありました。漁師はエビス様を大事にしていましたからかなり大きい棚でした。エビス様は他の人がお金を持っているのを見るとお喜びになるので、漁師の家ではたいていが玄関口にお祭りをしていました。
 次の部屋は、畳部屋で真ん中に敷居があり、4畳と6畳で合わせて10畳の部屋があり、襖(ふすま)を入れるようになっていましたが、入れた記憶はあまりありません。6畳の部屋が両親の寝室でした。仏壇は4畳の部屋にありました。一番西の部屋は板の間でしたが、食事は大体その板の間で、丸い飯台を使っていました。その西の海に面したところに1階だけの台所がありました。二つ焚き口のクドがありました。屋敷だけは50坪(約165m²)ほどの広さで、部屋の仕切りは大体ふすまで仕切るようになっていました。
 2階は東から12畳、10畳、10畳の3部屋の畳部屋があり、一番東側の部屋に床の間があり、そこには神棚もあり、香川県の金比羅さんからもらってきた御札(おふだ)が20枚ほどありました。年に1回は金比羅さんに行っていましたし、42歳の年祝いなどにも金比羅さんに詣(もう)でていました。
 私はまだ若かったですが、一応当主でしたから皆が立ててくれました。しかし食事のときの席順などはいいませんでした。常雇いの従業員が15人ぐらいいましたが、男の人たちのことをオオゴシさん、女性の従業員のことをオナゴシさんと呼んでいました。
 食事が済めば、網が綿糸でしたから、昼までは網の修理と網の乾燥の仕事がありました。月に1回は大きな釜に薬品を入れて網の傷みを防ぐ処置をしていました。別の場所に400坪(約1,320m²)ほどの干し場がありました。
 四つ張りの網は、45m、45mの四角で、深さが30mくらいはありましたから大きいものでした。網の保管は家から離れたところに倉庫がありました。家の海側には10坪ぐらいの小さな納屋があり、そこには風呂場と煮干し製造の釜がありました。風呂は五右衛門風呂でしたが、近所の人がもらい湯にきていました。薪(まき)などを持ってきて勝手に沸かして使うこともありました。
 水は井戸がありましたが、その井戸は打ち抜きで台所の外にあり、手押しポンプでバケツにくんで風呂に入れていました。
 私は10人兄弟でしたから2階が寝所になっていました。下の階はだいたい漁師の遊び場でしたが、時々2階でもしていました。警察官まで裏からきて寄せてくれやといっていっしょにやっていました。家にかぎを掛けるようなこともなく、近所の人の気心も知れていて、今と違ってのんびりした住みやすい時代だったと思います。」

 イ 海のくらし

 **さんは海のくらしについて次のように語る。
 「私は昭和23年(1948年)に八幡浜の学校を18歳で卒業し、すぐに家業に従事しました。打瀬漁をやめた後、昭和24年ころから四つ張り漁を始めました。1月と2月は海が荒れるので休んで道具の手入れをすることが多く、四つ張り漁ができるのは、月にして15日前後でした。
 四つ張りというのは夜漁に出て行って集魚灯で魚をとる漁法で、帰りは朝になります。朝帰ってきたら皆で10時ぐらいまでは食事をして、飲んだり食べたりしていました。朝食は大きな釜でイモを蒸して用意をしていましたが、私らが食べようと思ったらなくなっていることがしばしばでした。
 戦後、四つ張り漁は沿岸の漁では花形だったと思います。いりこにするイワシをとるわけですが、昭和30年からやや下り坂になりました。それまでは大漁が続き、小学校の先生が1年間休職して四つ張り漁に従事したということもありました。そのくらい稼ぎがよかったということです。
 四つ張り漁は4隻の網船(エンジン付きの3隻とエンジンなしの1隻の中船)で構成されていて、中船で明かりを照らして魚を集めて網を上げます。一つの船が300mのロープで網を広げ、そこで集魚灯をつけて魚を寄せます。日が沈むころに漁に出て、漁場で網を下ろしたら午前2時か3時くらいまで監視役以外は睡眠をとり、網を上げます。帰ってからも網を修理したりすると昼までかかります。昼と夜は各自で食事をしてからまた出漁します。網元とひき子の間は親分、子分の関係で親子関係よりきずなが強いところがありました。
 私が結婚したのは昭和30年(1955年)のことです。女性は漁に行きませんでしたが、とった魚は自分の家で加工していました。これは家内の仕事でした。自分の家ではオナゴシさんが120貫(約450kg)くらいは加工し、それ以上のものは加工専門の人に頼んでいました。給料は歩合制でしたからとり高によって親方が6割、残りの4割を皆で分けていました。大漁のときは旗を揚げて帰りますから今日は忙しいかどうかがすぐわかります。昭和28年(1953年)には魚群探知機を導入していましたので、魚群を見つけるのは比較的楽でした。
 毎年、正月の2日には、船祝いといって1升枡(しょうます)(1.8ℓ入る容器)にお金を入れて、外に向かってまいていました。昭和20年代末ころにはその習慣はなくなっていましたが、皆がそれを拾いにきていました。餅(もち)をまくのならまだしも、お金をまくのですから、漁師はお金に対して無頓着(むとんちゃく)というか宵越しのお金を持たないとかいわれるのです。
 給料が出る日、常雇いの人が15人ほどいましたが、まともに給料をとって帰れる人は3人位いればいい方でした。皆前借りが多く、それだけ生活も大変だったのだと思います。
 休みのときは3人ぐらいに網などの手入れをするための日当を出していました。漁が済んだらひき子の人たちが家の前でたむろしているので近所の人は、岩丸の前を通るのはいやだなどと言っていました。
 昭和30年代中ごろからは、八幡浜のトロール船の景気がよくなり、そちらに漁師はひかれていきました。四つ張り漁は魚がとれなくなったうえに、日本全体の景気がよくなり、多くの漁師が出稼ぎに行き始め、漁師自体がやってられなくなりました。私も昭和36年(1961年)に四つ張り漁をやめ業種の転換を図り、現在歯ブラシ製造業をやっています。
 よその地区では船に関するいろいろな儀式があったようですが、私の家でも正月2日には年の始めの乗り初めのお祝いをしていました。これは実際に船に乗るのではなく家の中での宴会です。同じ日に船にお祭りしてある船霊様(ふなだまさま)に五穀とお神酒(みき)をお供えしていました。
 漁師の生活全体からいえば嫁さんは苦労していたと思います。男は漁のないときは、たむろして飲んだり食べたり遊んだりで、その世話も女がしなくてはなりませんでした。男が好き勝手していたということです。あの時代の漁師はたいていそのような生活ではなかったかと思います。」

図表2-3-14 網元の住まい

図表2-3-14 網元の住まい

**さんからの聞き取りにより作成(1階のみ)。