データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)季節的移住集落①

 伊予灘海域においていわし網漁が盛んであった昭和30年(1955年)ころまで、その漁期にあわせ一時的に他地域に移住し、集落を構え生活する季節的な漁家集落があった。松山市の二神(ふたがみ)島と由利(ゆり)島、大泊(おおとまり)と網(あみ)ノ浦(うら)においての季節的な集落について聞き取りを行い、その住まいとくらしの様子を探った。

 ア 由利島と二神島

 由利島は、二神島の南に位置し、周囲4kmほどしかない小さな島である。島の東部の大由利・西部の小由利と呼ばれる二つの山を結ぶ間に間(あいだ)の浜と呼ばれるわずかな平坦地があり、二つの島が潮流によって接合された陸(りく)けい島である。昭和初期にはいわし網が全盛で、浜には10基を超す釜場が設けられ、一時期、夏季のイワシの漁期には二神島から数百人の人が移住し漁をしていたことがある。昭和40年(1965年)ころには3世帯6人が定住し、全員漁業に従事していたが、現在は無人島になっている。
 二神島は、北に津和地(つわじ)島・怒和(ぬわ)島、北東に中島があり、南に由利島がある。島の北部中央に二神港があり、その付近に集落が形成され、漁業が中心である。人口は昭和21年(1946年)に1,286人、昭和41年(1966年)197戸861人、同58年10月415人、平成17年(2005年)10月1日現在で118戸228人になっている。
 昭和初期から昭和15年(1940年)までが、由利島のいわし漁の全盛時代である。昭和30年(1955年)ころから網船も動力化し、市場との連絡のため電話も架設されたが、イワシの方は年々不漁となり、また青年の都市集中のため労働力不足となり、昭和38年(1963年)から由利島行きは中止された。
 由利島には、東の大由利の部分は一面屋根にふくカヤが密生していた。戦時中には山頂に海軍の監視哨(かんししょう)が設けられ30人余りの軍人が駐屯し、昭和19年(1944年)4月22日には水道も取り付けられたが、終戦とともに取り壊された。昭和22年(1947年)には20戸の家があり、そのうち18軒は二神島と由利島の両方に家を持っていた(⑦)。
 二神島に生まれ、漁師として二神島で生活をし、由利島でのいわし漁の経験のある**さん(大正5年生まれ)に由利島での生活と二神島での住まいとくらしについて聞いた。

 (ア) 由利島の住まいとくらし

 「二神島では、イモと麦の生活が主体でした。麦のあとイモを植えたらイモが成長する夏の間は島の人たちには余り仕事はなく、イモを植えて肥料をやったら何もすることがありません。働けるものは皆、由利島に行きました。夏休みには児童、生徒も由利島に行くので、二神島は老人と幼児ばかりの島になりました。
 6月の末までは二神島近海で漁をして小さいシロコを多くとり、7月から10月は由利島に行って、少し大きくなったイワシを中羽(ちゅうば)、大きくなったイワシを大羽(おおば)といいますが、網の種類を変えてこれらをとりました。
 私は昭和の初めに、両親と姉とともに小学生の夏休みから由利島に行き始めました。そのときの賃金は大人の7分から8分もらっていました。いわし網はたいした賃金にはなりませんでしたが、女子は男の8分もらえますから、家族みんなで行けば、皆に賃金があったからよかったのです。他の漁業では皆が確実に賃があるようにはなりませんでした。
 由利島の住居は、夏だけの住まいですから屋根は杉皮(のちにトタンになった。)で葺(ふ)いてあり、長屋作りで各戸は簡単な板で仕切ってありました。1棟が10軒で5棟はあったと思います。入口は小さい開き戸が1枚で、土間などありませんでした。入口にかまどが畳1枚程度の場所にあって、火のたき方が悪いと煙が長屋の各部屋にいくのでお互いがよく文句を言っていました。
 1家族1部屋で、部屋は6畳あるかないかの広さで、そこに家族全員が寝起きしていました。板の間にむしろを敷いて、その上にうすべり(ござ)を敷いて寝たり、毛布みたいなものを敷いていたりしました。長い倉庫が四つほど海岸に近い場所にありましたが、これは雨などのときの煮干の干し場でもあり、保管庫でもありました。若い連中は、倉庫の中で板を敷いてそこにむしろを敷きその上にござを敷いて寝ていました。
 水は、私たちが住む小屋の近くに三つの井戸がありました。海水がかなり混ざっていたので、飲料水には適しませんでした。島の東側に住宅があり、人がしばらく住んでいましたから、そこには飲料水に適した井戸があり、船で皆が交代で汲んできて余分な水は使わないようにしていました。
 由利島では、風呂はそれぞれの長屋の間にありました。風呂には屋根などありませんでした。2軒が当番で水を汲んだり掃除をしていました。男が先に入り、女が後でした。風呂水は飲料水に適さない井戸の水を使っていました。
 イワシの干し場は小さい小石の浜(写真2-3-11参照)で、海岸一帯が真白な銀世界になるぐらいイワシがとれていました。網は、最初は地引網でしたが、昭和10年代には船引き網になっていたと思います。2隻の船で網を浜の近くまで引いてきますが、最後の網を絞るタイミングがよくないと逃げられます。
 当時船1隻に12人は乗り、一つの網で船2隻で、三つの網がありましたから70人は必要でした。また、由利島の沖では巾着(きんちゃく)網(巻き網の一種)が使われて、巾着網には40人いましたから合わせて100人以上いたと思います。それに子ども、年寄りもいましたから大勢の人でした。
 魚の群れを見つけるためには山に魚見小屋があり、木の枝を利用して、はしごを掛けてそこで座って双眼鏡で見張るのです。イワシが入ってきたら、白い旗を揚げるのです。それを見たものが『旗がまいとるぞー、旗がまいとるぞー』と叫ぶと、笛が鳴ります。それから船を出すのに5分とかかりませんでした。それぞれの役割が決まっていましたから、1号船、2号船、3号船と皆が分乗してテブネ(テブネは事前に魚を探し網船を誘導する役目の船)と脇テブネ(網を見張ったり、漁獲物を運んだりする本船付属の小船)の誘導によって漁場に行きます。脇テブネに百俵(約300kg)になったらお祝いでした。倉庫でむしろを敷いて宴会です。船には、大船頭、トモロオシがいて、その人たちが指示役でした。網の責任者はカタヤリといっていました。酒盛りのときは必ず大漁歌が出ます。そして座席は大船頭が上座、そしてトモロオシ、脇ロオシ、カタヤリ、網ヤリとなっていて、後は自由でした。
 買い付けは、入札は何月何日にすると連絡し、二神島に由利島から毎日渡海船が出ていました。船頭は決まっていて、病人を運んだり、食料を仕入れに行ったりしていました。ずる賢いものは船頭に頼んで乗せてもらって休みに帰る者もいました。漁は日の出るころと、日の落ちるころがいい時期でした。日が高いときはあまり漁に出ませんでした。」

 (イ)二神島の住まいとくらし

 **さんは二神島でのくらしについて次のように語る。
 「私の家は、貧乏でしたから、小さい家でした。6畳2間と海側に4畳半のご飯を食べる部屋がありました。入口は海側にあり、全部で21坪しかありませんでした。それにトイレ、狭い土間に焚き口二つのクドと家の中に掘った井戸(写真2-3-12参照)があり、3部屋でしたが、床の間・神棚・縁起棚はありました。
 この島のほとんどの家が半農半漁で私も同じようなものでした。畑は3反(約30a)ぐらいありました。
 水は島ですからそれなりに苦労しました。昔は外にある共同井戸の水を汲んできて、家にある4斗(約72ℓ)くらい入るかめに汲み置きするのが常で、毎朝ご飯をたく前にそれを汲んでくるのが女子の仕事でした。井戸は個人所有と共同井戸がありましたが、井戸には、飲料用とそうでないものがあり、飲料用でない水は『からい水』、飲料用に適した水を『甘い水』と呼んでいたこともありました。
 簡易水道は昭和20年代(正確には昭和26年〔1951年〕)にできたと思いますが、夏の渇水期には時間給水が度々でした。
 二神島の集落(図表2-3-11参照)は西から本浦(ほんうら)・小泊(こどまり)・向井(むかい)・泊(とまり)・脇(わき)ノ浜(はま)に分かれ、本浦の西端に安養寺(あんようじ)、本浦と小泊の境界に宇佐八幡神社(図表2-3-11参照)があります。西の本浦と東の脇ノ浜集落のはずれの城(じょう)ノ後(しろ)の2か所に共同墓地があります。西端の墓地は安養寺の近くにあります。小さな部落なのに墓地が2か所あります。西端の墓地は本浦地区の家の墓地であり、東端はそれ以外全部の家の墓地になっています。これは、八幡神社が神聖な場所ですから、死人が出ると神社を通ってはいけないと伝えられてきましたので、お墓は西と東にあるのです。これは現在でも続いています。火葬が一般的になってからは、二神島には火葬場がないので松山で火葬にして二神島の墓地にというのが現状です。
 晴れ着を着るのは、結婚式、葬式、年祝いぐらいでした。漁師はエビス信仰ですが、氏神は宇佐八幡神社です。病気の祈願などにはよく宇佐八幡神社や妙見様に行っていました。妙見様は島の妙見山の中腹に祀(まつ)ってありますが、現在でも女人禁制で女性はここまでという印があります。絶対ダメということではありませんが現在も続いています。妙見様はイヌとキジが嫌いなので二神島では昔からイヌを飼う家はあまりないのです。何故かといわれると分かりません。
 漁の休みは正月の15日まででした。すす払いは12月18日に決まっていました。この地域の皆でしていましたが、現在はありません。
 近所の助け合いは冠婚葬祭などあらゆることに及んでいました。兄弟、親戚(しんせき)、そして近所の『回り7軒』といってその7軒が協力していました。現在は戸数が減りましたから厳密な7軒ではありません。
 船に乗るのに嫌われていたのが、肉を食べてきたり、においのするもの、例えばニンニクなど食べてくると嫌われていました。船に持ち込んでいけないものは、ヘビの絵を書いてあるものを持ってくると嫌われていました。タイの大きいのでもかかると縁起がいいとか、小さいのだと縁起が悪いだとかいっていました。
 ここらでの食は、麦1升に米2合とよくいいますがこのような家庭はまだいいほうでした。蒸しいもだけで済ませることも多く、ダイコンや、サトイモを混ぜたおじやや、いもがゆが多かったのを覚えています。今の生活など考えられませんで、これもいままで長生きできたおかげだと思っています。」

写真2-3-11 由利島の浜(陸けい砂州)

写真2-3-11 由利島の浜(陸けい砂州)

由利島(松山市二神)。平成17年7月撮影

写真2-3-12 役目を終えたくどと井戸

写真2-3-12 役目を終えたくどと井戸

松山市二神。平成17年7月撮影

図表2-3-11 二神島の集落と宇佐八幡神社

図表2-3-11 二神島の集落と宇佐八幡神社

**さん提供の資料から作成。