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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)人口二人の島 豊島②

 イ 家長として

 さらに**さんは家長としての仕事について語る。
 「戦後、エンジン付きの小さい船でたこ壺漁をはじめました。そのころ定置網をやらないかと言ってくれた人もいましたが、網を購入しなければなりませんし、資本がかかりましたからたこ壺漁にしました。この時期が一番生活が苦しかったと思います。たこ壺漁は6月から8月が最盛期ですが、6月には麦刈りがあり、その後イモを植えなくてはならない時期です。そのころに香川県の多度津(たどつ)からたこ壺を買ってきてそれを縛り、漁の準備をしなくてはなりませんから、体力的にも経済的にも苦しく、忙しい思いをしました。
 25歳のときに結婚しましたが、親父は酒が好きで、昭和20年代後半に55歳で亡くなりました。母は10年ほど前に90歳を超して亡くなりました。親父が亡くなった後もたこ壺とイモ・麦で生計を維持していました。昭和30年代になって、このままでは生活も大変だと思い、漁協へ相談に行きますとイカの水揚げが多いと勧められて、いか漁を思いつきました。それは、かご(写真2-3-5参照)を沈めておいて卵を生みに入ってきたイカをとる、いかだま(いかかご)漁法といいます。これで何とか漁もでき、収入にもなりました。
 昭和30年代の後半でしたが、農業の指導員が柑橘(かんきつ)の奨励に来ました。松山市や温泉郡のみかん農家の景気の良さを説明したものですから、皆がこぞってミカンを植えました。育ったミカンは甘くてよかったのですが見てくれが悪く、2,000本ほど植えましたが、植えたばっかりで生計の足しにはなりませんでした。
 戦後のことですが、兵隊帰りの人などのために開拓帰農組合というのがありましたが、その人たちが豊島に入植して山林を開拓し島を丸坊主にしてしまいました。食糧事情が安定して、弓削島では明々と電気がついているのを豊島から見ると、早く電気がついて欲しいという願いがつのるばかりでした。昭和31年(1956年)だったと思いますが、自家発電の装置ができて、ランプの生活から解放されましたが、使えるのは午後10時まででした(受益戸数24戸(④))。昭和43年(1968年)に中国電力が海底ケーブルを敷設し、送電が始まり自由に電気が使えるようになり、それは嬉(うれ)しかったです。電話は昭和32年についたと思いますが、そのころから島民の離島が急速に進み始めました。
 昭和40年代の初めに、弓削島の知人がのり養殖を手伝いに来てくれないかということで行きました。それを見ているとこれならもうかるかもしれないと思い、愛媛県西条(さいじょう)市の禎瑞(ていずい)までノリの種をもらいに行きました。ノリのついている網をもらって、数か所にノリを張りました。成長しましたが、色が茶色のノリでぜんぜんお金になりませんでした。その経験を生かして、本格的にノリをやってみようと弓削鎌田(かまた)地区に昭和47年(1972年)に家を建てて移ってきました。
 豊島での近所の付き合いに常会(じょうかい)というのがありました。地区の集会のことですが、部落長宅または分教場で弓削町からの連絡事項や島の行事などについての話し合いが開催されていました。定期的なものではありませんでした。集会所もありましたが、これは、弓削町の財政補助で昭和21年(1946年)に大挙入植した開拓者のために建てられた集会所で8畳程度の広さでした。
 豊島には磯明神(いそみょうじん)というお社がありますが、お祭りは5月15日で、このときは皆で集まってお参りをし、弓削神社の神主さんに祝詞(のりと)を上げてもらっていました。注連縄(しめなわ)を作り、幟(のぼり)を立て、幕張りなどもしました。漁祭りともいわれ、露店も出て土地の人だけでなく、近島の船が大漁旗を揚げてお参りにきていました。
 生活の中で最も苦しかったのは、とにかく現金収入がなかったことでした。畑はイモと麦の繰り返しで、漁もたこ漁、いか漁も毎年一定の収入があるわけではありませんでした。どんな辛い仕事でもいいから収入があるのなら何でもしようと思いました。これまでよく元気で仕事ができたと思います。朝から晩まで太陽が出ている間は働きました。小さい島で生まれ育ってきましたから、今でも豊島へ行くとほっとするし、愛着があります。」

写真2-3-5 いかかご

写真2-3-5 いかかご

越智郡上島町弓削。平成17年7月撮影